昔、上野千鶴子さんの著書を何冊か読んで、なるほどと思うことがしばしばあった。ある時、当時、出版社で雑誌の編集長をしていた高校の同級生に話をしたら「彼女には近づかない方がいいぞ」と真顔で“忠告”され、笑ったことを思い出す。確かに思春期のころわざと弟の目の前で下着をはきかえてドギマギさせた、などと恐ろしいことが書かれていた著書もあった。高校の同級生が恐ろしい目にあったのは、無論もっと強烈なものだった、と想像する。
上野さんのことを思い出したのは、放射線安全の専門家である小佐古敏荘・東京大学教授が、政府や原子力安全委員会の対応に腹を立てて辞任したことからだ。
何度も同じ手を使うのは気が引けるが19年前に旧職場である通信社の社内文書「編集週報」に書いた記事を再録する。上野さんのことは最後の方にしか出てこないのだが…。
ヨソモノの眼
将棋の升田幸三氏と観戦記で有名な倉島竹二郎氏が亡くなる前、テレビ対局の解説、聞き手として登場したことがある。対局者が一手指すごとに、升田氏が間髪を入れず次の手を予想してしまう。そのうち、解説用の将棋盤上でどんどん手を進め、最後に「歩」を打って「これで決まり! どうだ」というような表情をした。と、一瞬、間をおいて倉島氏が言った。「升田さん、それ“二歩”ですよ」
言うまでもなく、将棋の二歩は禁じ手である。もし、対局者がそんな手を指したら、即座に反則負けだ。
よく「岡目八目」とかいって盤外の人間の方が状況がよく見えるようなことをいうが、どうだろうか? 実際には生活が懸かっている対局者、つまり当事者の方が数十倍、数百倍も深く考えているという方が事実ではないか。結果的に解説者の指摘した手の方が正しかったとしても、一手でもぬるい手を指せば負けになる対局者の読みの結果と同列には論じられない、というのが愚生の考えである。
自分で株や馬券に手を出そうとしない人が、大胆な予想をして仮にそれがものの見事に当たったとする。だからといって、そんな自慢話に耳を傾けようとする人はいまい。
日常の仕事の中で、折に触れて「升田氏の二歩」を思い出す。盤外者ともいうべき、批判グループの主張のみをうのみにしているのでは、と思われる記事を目にしたときである。
最近読んだ上野千鶴子さんの本の中に、日ごろ思っていることが、えらく分かりやすく書かれていたので驚いた。
「およそある社会のリアリティを再構成して記述するには、それを支えるインサイダーの視点が不可欠である。ヨソモノの眼から描写された社会をもって、これを現実だと言うわけにはいかない」(「女という快楽」)…
拙文はこの後、「『インサイダー』と『ヨソモノ』の視点が妥協不能なほど相反するのは、原子力発電だろう」という記述が続くのだが、省略する。
それにしても福島第一原子力発電所事故という歴史に残る出来事が起き、予断を許さない状況が続いている。ヨソモノの眼から一転、インサイダーの眼を持てる立場になったのに、もうちょっと我慢する手はなかったものだろうか。原子力発電や放射線防護の世界を、“現実”として描写できるようなチャンスを得られたかもしれないのに…。
小佐古氏辞任のニュースに、昔の文章を思い出したという次第だ。