マスコミ以外でも通用するのかどうか知らないが、アルバイト原稿という業界用語がある。自分が属する新聞社や通信社のためでなく、ほかの媒体のために記事を書いて原稿料を得る行為を指す。どうにも断れない場合でもない限り、まず引き受けないようにしてきた。昔から働き者ではない、というだけではないか、と言われたらその通りだが。
ただ、アルバイト原稿に気が進まなかったことには、ちょっとした理由もないことはない。他人が書いた記事を切りばりしたよう記事なら書かない方がまし。こんな気持ちで仕事をしてきた記者は編集者に限らずいくらでもいると思う。そんな思いからすれば、アルバイト原稿には大きな障害があるのだ。通信社の記者が取材をすると当然、取材相手は報酬など期待せず貴重な時間を割くことになる。自分の話したことは新聞社や放送局に記事として流されると思って対応するはずだから、意図が違うと知ったらどうだろう。そう考えると、とてもじゃないがやる気になれない、ということだ。
どうしてこんな昔のことを思い出したか。たまたま昼と夜、別の席で公的な広報事業にかかわる入札ということについて考えさせられたためだ。昼食の相手は「競争入札に応募する資料づくりでえらい時間を取られている」とぼやいていた。夜は夜で逆に別の友人に頼まれ、応札書類づくりの相談に乗る。応札資料に盛り込めと書かれた内容を見せられて、考え込んだ。与えられたテーマに沿ってどのような内容のものが作れるかを詳細に問うている。注文も具体的で、要するにそのまま最初の号になるような冊子を試作して提出してくれというようなものだ。
運良く仕事を取れたなら、見返りは十分ある。提出した冊子はそのまま最初の号に利用できるから労力も無駄にならない。しかし、多数の敗者はどうか。試作品に盛り込まれた内容は、日の目を見ない無駄玉になるわけだ。公平な世の中を成り立たせるために負わなければならないコスト。そもそも選挙だって膨大な死票が避けられないではないか。そう考えるべきなのだろうが、入札資料づくりのために取材を受けた人たちはどうだろう。どこの媒体に載るわけでもない無駄話をさせられただけ、あるいは無駄な便宜を図っただけ、ということにならないか。などなどいろいろ考えてしまった。随意契約がよいはずはなく、入札制度にした方が無駄な税金が使われずに済むのは間違いない、とは思うものの。
1月に名古屋大学で開かれたシンポジウムで初めてお目にかかった樋口敬二・名古屋大学名誉教授から、1999年発行の「岩波口座『科学・技術と人間』」(岩波書店)に執筆された論文「行動的研究集団」のコピーを送っていただいた。早速拝読したところ、樋口氏の師である中谷宇吉郎博士について書かれた興味深い挿話があった。雪中飛行という当時の難題を解決するための研究を依頼された時、「2年や3年で片付く問題ではなく、迷惑を掛けるから」といったん断った中谷博士に対し、依頼主は言ったという。「その点は分かっているから、黙って10年やってみてくれ」。実際にその通り催促がましいことも言われず、研究費も支給され続けた、という。
樋口氏は、中谷博士が名前を伏せた依頼主を、海軍横須賀工廠の発動機実験部長だった花島孝一機関大佐(後に中将)だと推定している。
時代が違うと言えばそれまでだが、社会の変化を感じざるを得ない挿話ではないだろうか。ちなみに樋口氏がこの話を紹介している章のタイトルは「問題解決型研究」である。
「雪の研究もまた、雪中飛行という問題に対処しようとして始められた『問題解決型研究』であると考えたわけである」という言葉で締められていた。

