今年の暮れは編集者にとってはちょっとした異変があった。年賀状を正月まで1週間も余して書き終えたのだ。この10年以上、年賀状を書くために30日あるいは31日まで悪戦苦闘していたのだから、「自分で自分を褒めたい」。そんな心境といったところだろうか。
理由は実に皮肉で、パソコンに一切頼らなかったおかげである。プリンターが数年間の酷使によって紙送り不能になってしまったことが直接の理由だが、遠因もある。3年前だったか4年前だったか、パソコンが年賀状作成作業中にフリーズしてしまったことがあった。昔から印刷業者に頼むのに抵抗があり、無理してパソコンで基本文面を作り印刷したものに一言書き添える、という作業をずっと続けていた。パソコンが突然機能停止になったのは、ようやく大半の宛先だけを宛名ソフトを利用して印刷し終わったという時点、それも大晦日にあと何日もない時である。
ちょっとしたパニックに陥ったものだ。年内に出すのはあきらめて、年明け、年賀状をもらった人にだけ返事するという非常手段に出た。そこで大発見をする。それまで年々、付き合いが増えるままに枚数も増やしていたのだが、何と受け取る枚数は、こちらが出した7割程度しかない。年賀状というのは出すだけで疲れ果てて、せっかくいただいたものはさっと目を通すだけ。整理もしていなかったから、だれからもらったかをきちんと把握していなかった、ということだ。
とにかくこのトラブルで、枚数をだいぶ減らせたのはありがたかった。2年前からとうとう文面の基本部分も印刷業者に頼むことにしたのでさらに作業軽減が図れた。と思う間もなく、昨年は途中からプリンターが“疲労骨折”してしまったという次第。ここに至り、今年は宛名も手書きにすることを決断する。今年いただいた年賀はがきと昨年暮れにいただいた喪中はがきを見ながら一つ一つ宛名を書き移す。時間がかかるのは間違いないから、12月上旬から毎晩、作業を続け、ついに快挙に至ったというわけだ。枚数は、既に昨年の時点で最も多かった年の半分弱まで減っていた。今年いただいたはがきの文面も一つ一つ読んで、こちらも相応の意義を感じる。
というわけで週末は例年とは全く異なる気分で過ごすことができた。土曜日のうちにいくつか私用をこなし、日曜日、東京体育館で開催中のバスケットボール高校選抜大会でも観戦するか、それとも映画を見るか迷った結果、渋谷で「海炭市叙景」(熊切和嘉監督)を観る。監督の名も実は知らなかったし、俳優も名前と顔が結び付いたのは小林薫だけだったが、期待通りの秀作だった。
翌28日の日経新聞朝刊文化面にたまたまこの映画を褒めている記事が載っていた。佐藤泰志(この人の名前も初めて知る)の原作がモデルとしたのは、1980年代の函館という。映画もほとんど函館で撮影されたそうだが「登場人物のいら立ちや痛みは2010年の今も古びていない」と書かれていた。なるほど、と記事にも感心する。
80年代の東京から遠く離れた函館にも、既にこうした心的状況が浸透し、広がっていたのか。そう思えば、つらい人生を送る人間はもうだいぶ前から日本のあちこちにいるのかも、と妙に納得できるような気がする。
映画を観、日経新聞の記事を読んで、映画というメディアの可能性の大きさとともに、映画づくりを仕事とすることの困難さをあらためて思う。一つの作品を仕上げるのにかかる費用を回収する難しさは昔も変わらないのだろう。しかし、自分が納得し、かつ大勢の観客に受け入れられる作品を作る難しさは、昔よりさらに難しくなっているのではないだろうか。
こうした映画を見て感動する人間は、幸せいっぱいの人ではないし、さりとてとてつもなく不幸せな人でもない。編集者のように裕福でもなければ、取り立てて貧乏とも言えないささやかな“余裕”がある観客に限られるようでもあるし。そんな気がする。