双方向というのは今時、何にもまして重要視されるキーワードだろう。当サイエンスポータルも何とか読者の方々との双方向のやりとりを、と苦吟しているところだ。一方、編集者にとってどうにも双方向にはなり得ないものがある。高校の何人かの先輩との関係だ。一方的に面倒見ていただくばかりで、返礼のしようがない。格が違いすぎるからどうにもならないということだ。
この夜もそうした先輩に「半年間は予約で埋まっている」という店でごちそうになる。
手ごろな厚さに切られた生ハムのようなものが出てきた。歯触りと味に驚く。生肉というよりチーズみたいだ。これまで牛肉を取り立ててうまいと思ったことはないが、知らなかっただけの話か、と浅はかさを恥じる。
2軒目のクラブで数学者の秋山仁氏(東海大学教育開発研究所長)にお会いする。先輩とは顔なじみのようだったが、編集者は初対面だ。愛用のアコーディオンをかついで来られ、他の客のために弾き語りを披露してくれた。
イブ・モンタンが得意としていた「ガレリアン」を聴くのは久しぶりだ。知らない人が見たら、数学者とはまず気づかないだろう。陽の当たる場所で活躍している人々のことも、名もなく貧しく生きる人々の気持ちも分かる。そんなシャンソン歌手に違いない、と。編集者も昔、銀巴里によく出ていた工藤勉(故人)という歌手を思い出した。
「アコーディオンは、どうしてあれほど多くのボタンがあるのか。和音の数からいえばそんなに必要ないのでは」。10曲近い曲を立て続けに演奏したばかりの秋山先生にかねてからの疑問をぶつけてみた。
「音は確かに12(種類)しかない。しかし、和音はメジャーコード、マイナーコード、セブンスコードなどがあり、さらにボタンとボタンの間が離れすぎると演奏しにくい。同じ和音のボタンが複数必要だからあれだけの数になる」
先生はNHK教育テレビでも数学の講座を持っており、音楽と数学との関連も教えているとのこと。「放送内容を収めたCDを送る」という約束をいただいた。
才能のある人間が感情のおもむくままに曲をつくる。それが音楽だろうと小さいころ思っていた。きちんとしたルールに乗ってあらゆる曲が出来上がっているらしいと初めて知ったのは、小学3、4年生の時だったと思う。大地主の娘だった担任の先生が音楽の時間になるとオルガンで和音を弾いて、皆に「T」(ド、ミ、ソ)か、「S」(ド、ファ、ラ)か、「D」(シ、レ、ソ)か、を当てさせた。毎時間、最初に必ずやるので大事なことを教えているのだろうとは思ったが、まともな楽器を弾いたことがない悲しさでそれ以上深い意味は分からなかった。
和音とはこういうことだったのか! 突然、腑(ふ)に落ちたのは20年以上も後のことだ。ボーナスを全部はたいて子供たちのためにアップライトピアノを買い与えたのに、数年もたたないうちに全く弾こうとしなくなってしまった。誰も弾かないピアノが狭い団地の貴重なスペースを占めているというのは、腹が立つ。それなら自分で弾くしかない、と思いつく。とはいえ、今さら人に教えてもらう気にもならないし、独りで教則本からはじめるのもたまらない。ここはぐっと目標を下げて弾き語りができるようになれば十分、としよう。ならば、和音を覚えないと、となった。
そこでいろいろやっているうちに、突然、小学校で音楽の時間のたびに答えさせられた和音当ての意味に気づいたというわけだ。「S」(ド、ファ、ラ)と教えられていたのが、「T」(ド、ミ、ソ)と実は同じ性格の和音で、単に音程を4度平行移動しただけ、「D」(シ、レ、ソ)も同様に「T」(ド、ミ、ソ)を5度平行移動しただけ、と。
マイナーコードやセブンスコードなどもこの基本的な関係が分かればどうということはない。休みの日にあきもせずピアノに向かっているうち、ほとんどのコードは手先を見ないでも弾けるようになった。紅白歌合戦が今よりはるかに人気があったころだ。暮れになると歌謡曲やニューミュージックを1,000曲くらい収めた分厚い歌集が複数の出版社から売り出された。それぞれの歌詞にC、D、GやDm、Gmといったコード(和音)記号が付いている。
「五番街のマリーへ」(阿久悠作詞、都倉俊一作曲)なんて曲は確か、C(ハ長調)でコードが振ってあった。編集者はCでは低すぎて、D(ニ長調)でないと気分よく歌えない。しかし、困ることはなかった。コードを全部覚えていたので、歌集のコードを一音上げて弾き、同時に歌詞を見ながら歌う。なんてことなど苦もなくできた、というわけだ。
つまらない昔話はこの程度にしておこう。ピアノもとっくに人にやってしまったし、コードもことごとく忘れてしまっただろうから、もはや弾き語りの楽しみもない。