日本鋼管(現NKK)、日本鉱業(現ジャパンエナジー)という2強時代が、日本の男子バスケットボール界に長く続いた時期があった。日本鉱業の中心選手だった今泉健一という方がいる。メルボルン(1956年)、ローマ(1960年)の両オリンピックにも出場した。ローマオリンピックに出た後、まもなく引退、これからは社業に専念ということだったのだろう。東京の本社からわが郷里の事業所(地元では日立鉱山と呼ばれている)に転勤してこられた。
中学、高校を通じバスケットボール部のチームメートで主将を務めた同級生が、日立鉱山病院の副院長の子だった。「息子もバスケットをやっているから一度話をしてはくれまいか」。父上が今泉氏に会社で頼んでくれたらしい。快諾してくれたというので、小学校からの同級生であるマネージャーも引き込み、日曜日3人で今泉氏を社宅に訪ねた。
県内では1、2を争うといっても全国的にはどうということはない。その程度のレベルでしかない高校チームの選手に対し、実に丁寧に練習方法を教えてくれた。オリンピックに出るような選手でも、同じような練習をしているのだな、と妙に納得したのを覚えている。難しいこと、できそうもないことを言われた記憶がない。しかし、簡単なことだが、思いもかけないようなことを教えられた。
その一つが、最初の動作を起こす前に必ずフェイントと呼ばれる動きをするということだ。「feint」、見せかけあるいは陽動作戦と訳される動作で、バスケットの場合だと、主にパスをする前にわざと逆の方向に投げるふりをする、あるいはドリブルインで切れ込む直前に逆の方に行くと見せかける場合などにこれを使う。驚いたのは、今泉氏が紙に鉛筆で書きながら教えてくれた練習のほとんどすべてが、まず逆方向へのフェイントをかけてから走り出せ、と矢印で示されたことだった。
今泉氏とお会いしたのはその1回だけだ。それほど目をむくような教えでもないだろう、と普通の人は考えるかもしれない。しかし、翌日の練習から忠実に実行してみて、徐々にこの意味の重要さが分かってきた。
例えば、ランニングシュートという基本的な練習がある。コートの中央でサイドライン沿いに位置する選手が中央の選手にパスをして、ゴールに向かって走り、中央の選手から帰ってくるパスを走りながら受けてシュートする、という練習だ。最初にパスを出すと同時に走り出す方が楽だから、それまで皆漫然とそのようにやっていた。だが、きちんと静止した状態でパスを出し、さらにフェイントをかけてから走り出すと、相手からのパスをうまいタイミングで受けるには自然と全速力で走らざるを得なくなる。三角パスも同じだった。フェイントという重要な動作を必ず最初に入れることで、その動作が習慣化し、そのうち試合中でも自然と出るようになる。それだけではなく、同じ練習に同じ時間を費やしても、フェイント−ダッシュ−全力疾走が盛り込まれた密度がはるかに濃い練習になるということだ。
14日夜、ワールドカップの日本対カメルーン戦があった。早寝早起き派としては試合開始まで起きている気になれない。しかし、その前にテレビ中継していたオランダ対デンマーク戦を観た。サッカーの試合を観ることはほとんどないが、印象に残ったことがある。フォワードやミッドフィルダーに比べると相手のマークはそれほどきつくないはずと思われるディフェンダーの選手でも、あわてたようにボールを味方の選手にけり出すことはまずない。ボールを自在にコントロールし、1度あるいは2度とフェイントをかけてからパスを出するのを当たり前のようにしていたことだ。
なるほどフェイントという動作には、バスケットで考えていたよりもっと深い意味がある、と初めて知った。フェイントをかけずにパスを出されると相手側の選手は、次の自分のプレーが読めて楽に違いない。パスが行きそうな方角にいる選手にまず注意を払えばよいということになるはず。しかしフェイントをかけられると、パスの方向を見誤ったり、見誤らないまでも自分のやるべき次の動きの判断がぎりぎりまでつかない。つまり、ディフェンダーでも巧みなフェイントが身についている選手は、いいパスを味方に送るだけでなく相手の選手たちをより疲れさせてもいる、と気づいたわけである。
翌朝、テレビのニュースを見たら本田圭佑選手がゴールを決める瞬間の映像が流れた。そこでふと思い、その後、新聞の写真を見て確信に近くなったことがある。
本田選手はボールをける直前にしっかりフェイントをかけたに違いない。なぜならゴールキーパーの体はボールと反対側に流れているように見えるから。