前夜、下北沢ザ・スズナリで観たパパ・タラフマラの「Nobody NO BODY」という劇が頭から離れない。男女2人ずつの俳優が65分間ほとんど休みなしに跳んだりはねたりだけでなく、転がったり組んずほぐれたりで、実にめまぐるしい。結局、筋らしいものはとんと分からずじまいだった。「ゴド—を待ちながら」の新解釈というから、演劇にうとい人間が「分かった」などといったら、そちらの方こそおかしい、ということだろう。
ここに出ていた女優の1人、南波冴さんは編集者が通信社時代、一緒に働いた親しい同僚の娘さんである。2日前、急に父上から「娘が出る劇のチケットが残っている」と誘いのメールが来たのだ。パンフレットやウェブによるとパパ・タラフマラというのは知る人ぞ知る劇団であることが分かる。海外公演も多く、NHK BS放送で放映されたこともあるようだ。この夜もほぼ満席だった。
劇が終わってから着替えてきた冴さんを元同僚から紹介された。疲れたような表情、そぶりを全く見せないのに驚く。「昼はバタバタになってしまって」。この日は昼夜2回の公演だったのだ。気の利いた質問を思いつかなかったので、劇の内容に全く関係のないことを尋ねてみた。
「舞台が終わるとどのくらい体重減りますか」。「3キロ半くらいですね」。一つの舞台ではなく一つの公演が終わったら、という意味に取ったらしい。しかし、それでも1週間そこらでそれだけ減るというのは、やはり相当、体力を使うということだろう。
中学、高校の運動部で毎日、結構きつい練習もやったつもりだが、体重が毎日減っていったりしたら大変だし、そうであったら何年も続けられるわけがない。使う体力はスポーツより激しいということだろうか。
収入から考えるととても割に合いそうもない演劇活動に人はなぜ、これほど一生懸命になるのだろうか。昔は、演劇を通じ民主的な世の中をつくるという目的で人生をかけた人たちもいただろうが、この劇団の人たちに関する限り、まずそういう意識はないのではないか。観客に楽しんでもらえばよい。心を動かしてもらえたらよい。そんな思いではないだろうか。
これまでパパ・タラフマラの劇を観客はどのように受け止めているのか、ウェブサイトで探してみた。中にこんな評があった。
「テーマはなにか?」
「何を意味しているのか?」
こんなことを探りたければ、それはこの公演が終わった後まで、我々は考えねばなるまい。
お題目のはっきりとしたドラマやなにやらを見せつけられてばかりいる昨今、何かを自ら解釈することの楽しみは数少なく、貴重である。(今日も映画の風が吹く2005年2月号)
フムフム。とはいえ、テーマや意味するところを解釈するという貴重な楽しみにふけることができる目の肥えた人はそんなにいないだろう。俳優の最大の楽しみは、自分の思ったとおりに体が動き、あるいは声が出た後の何とも言えない充足感なのでは。さらに他の俳優とのコラボレーションがぴたっと決まった時の…。編集者が思いつくことといえば、そんなことくらいしかない。これなら中高校生時代の運動部活動で感じた確たる記憶があるから。
ウェブサイトを探しているうちパパ・タラフマラ代表で演出家、小池博史氏の次のような言葉を見つけた。
「わからなくていいんです。感じてもらえれば」
確かにスポーツも、本当に好きな人間はその魅力などくどくど人に説明などしないかも。