東京新聞朝刊発言欄の2つの記事が目を引いた。行政刷新会議の事業仕分けについては、世論は仕分け人側についているという印象を強める記事だった。応答室だよりの見出しは「ノーベル賞受賞者に批判相次ぐ」である。「ミラー」という読者の投稿欄には69歳の主婦、久木野良子さんという方が「ノーベル賞の先生方が記者会見を開いて、事業仕分けを痛烈に批判していらした。が、一呼吸おいてほしかったと思います」と書いている。久木野さんは、片山義博・元鳥取県知事の次のような講演会発言を引用している。「メタボリック検診はメタボリック財団をつくってからひねり出した仕事なんですよ」。実に簡潔、分かりやすく、問題の本質は予算の無駄遣い排除にあるという見方を表現している。
1日、京都大学基礎物理学研究所で保存されている湯川秀樹博士の部屋を見学してきたばかりである。昔だったらノーベル賞受賞者に対するこうした批判記事が新聞に載るなどあり得なかったのでは。しばし考えてしまった。特に厳しいものが選ばれているとは思うが、応答室だよりが紹介している読者の声は、相当なものだ。「彼らが偉いのは分かるが、税金の使い方に、あまりに居丈高な物言いだ」「専門バカとよく言うが、彼らは日本の財政の現状を憂いている国民の意識とはかけ離れている。もっと広く世間を見て発言してほしい」…。
いくつか思い浮かぶことがある。ノーベル賞学者のすべてが人間としてはるかに優れた人だと必ずしも考えない国民が増えているのではないか。研究者、医師といった知的職業人に対する敬意も昔ほどではなくなっているのでは、と。小中学校の教師に対する見方もこの延長線上にあるような気がする。
国民の物事を見る目が確かになったから、と言えるかもしれない。「嫉妬心だ」。ある高名な研究者の言うことも正しいのかもしれない。いずれにしろ、専門的な知識を深めた人々を昔ほど多くの人々が尊敬しなくなっているのは確かではないだろうか。特に理工系に人材を集めることがますます難しくなっているという思いが強まる。
せめて国立大学の入試のあり方を昔のように戻せば少しはましになるような気がするがどうだろう。理系、文系とも社会、理科の2科目ずつを受験科目に課すようにするのだ。ノーベル賞受賞学者まで専門バカ呼ばわりされるような事態は、詰まるところ幅広い知識に欠けるということだろうから。