台風の列島縦断で都内の交通網も混乱したが、池袋の東京芸術劇場中ホールはほぼ満席に近かった。立川談笑の独演会だったのだが、人気は相当高いようだ。
運がよかったことに「時そば」「紙入れ」「紺屋高尾」と、すべて前に聞いたことがある噺ばかりだった。特に「紙入れ」は編集者の最も好きな噺なのだが、談笑にはちょっと気の毒ではあった。最初に聞いて大笑いしたのが、10年以上も前、イイノホールで行われたNHKの公開録画落語会である。この落語会は後で放送されるし、放送時間に合わせたっぷり30分近く演じられるので、出演者は皆、真剣にならざるをえない。このときは柳家小三治である。その後、何気なく聞いたラジオ番組(TBSだったか)では、昔の録音による放送で、三遊亭圓生だった。
紙入れの一番、面白いところは、旦那とおかみさんのやりとりにあると思う。この2人のかけあいをいかにもそれらしく聞かせてくれないと、存分に笑えない。談笑には気の毒だといったのは、落語にそれほど詳しくない編集者でも、圓生、小三治に比べると差は歴然としていることが分かったからだ。本人も、なにか新工夫を、ということだろうか。落ちに妙な手を加えたのが、ますますこの噺の面白さを殺したとしか思えない。
「気づいたところで、女房を寝取られるような間抜けな野郎だ。そこまでは気がつくめえ」。旦那のこの台詞で終わらないと、その前のおかみさんのことばの面白さも効果は半減、というところではないだろうか。
と偉そうなことを書いては見たものの、今の落語家の苦労が大きいのは分かる。この噺でも談笑は、「いまは死語になっているが間男というのは…」という説明から始めなければならなかった。
「紺屋高尾」の中でも、高尾太夫に自分のことを「売春婦」などと言わせていた。これも元々入っていた言葉ではないだろう。こうでも言わないと若い客に分かってもらえないからとなると、そもそも廓話自体が今の観客には受けにくくなっているのではないだろうか。古典のよいものに必要な手を加えながら今の時代に合うものとし、客に受け入れられなくなった噺の穴を埋める新作をつくって、後世に語り継がれるものに磨き上げていく。
落語の世界も大変だ。