通信社の記者時代、取材のため電話をしたことは数えきれない。先方はたいていの場合、迷惑だったはずだ。相手が間違いなく喜ぶのは、ノーベル賞受賞を伝えられた時くらいだろうか。しかし、その場合でも次から次にかかって来て、同じようなことを聞かれるから、すぐにうんざりしたと思うが。
ということで、いまだに必要に迫られない限り、こちらから個人的な電話はほとんどしない習慣がついてしまった。それでまた、しまったと反省する羽目に陥る。
高校の同級生で元時事通信記者の樋口弘志氏が糖尿病のため亡くなり、すでに密葬も済んでいる、というメールを別の同級生からもらったのは19日のことだ。すぐに当方が勝手に作成している同級生のメーリングリストで一斉に連絡はしたものの、奥方に電話をするという考えがまるで浮かばなかった。翌20日に奥方の方から電話をいただき、わが思慮の浅さ、冷たさをあらためて思い知らされたというわけだ。
樋口氏の通信社記者生活はあまり長くない。大阪支社に転勤になった日、タクシーで支社に向かう途中、救急車が後ろからピーポー鳴らして迫ってきた。運転手はそ知らぬ顔でハンドルを握ったまま。警視庁詰めの経験もある氏がつい「どうして救急車に道を譲らないの」と注意したときの運転手の答えが、「向こうも仕事だろうが、こっちも仕事をしているのだから」(無論、この言葉は大阪弁なのだが、記憶が薄れ再現できず)。
「その一言で、こんな土地柄のところで仕事をする気にならなくなった」。氏は大阪赴任直後に時事通信社を退社してしまった理由をそう話していた。話術に独特のサービス精神を持つ同じ水戸の人間として、大部分は冗談と分かったが、真の理由は追究しなかった。
新聞の不祥事として有名な出来事に「伊藤律架空会見記事」がある。伊藤律は、1950年GHQによる公職追放後、消息不明になった元共産党幹部だ。この伊藤律と宝塚市の山中で単独インタビューに成功したという捏造記事がその年の朝日新聞に載ったのである。その後も、伊藤律は公安のスパイだった、と松本清張が書くなど消息不明ながら有名な人物だった。
その伊藤律が実は中国で生存していることを1980年に中国政府が発表するのだが、その前に、伊藤律が中国で生存しているという特ダネを書いたのが、当時、時事通信社会部記者、樋口氏なのだ。編集者は後で共同通信社の同僚記者に教えられるまで全く知らなかったが、この記事で他社の社会部公安担当記者たちが真っ青になったのは、容易に想像できる。こんな特ダネを書かれたら、まず何年たったら同じような大スクープで仕返しできるか分からないから。
このネタ元がどこかもまた氏に問い質さないままになってしまった。日本の公安関係だったのだろうか、どこかの国の駐日大使館員(情報担当)だったのだろうか。
奥方からの電話で樋口氏が糖尿病のため2月に失明していたことを知らされた。「活字が好きな人だから失明はこたえたのでは。ふろに入って1時間も出てこないので心配でのぞいたら、湯に浸かったまま本を読んでいたこともあった」。そんな話を聞いて、さらに悔やんだ。この何年間、年賀状で体調不良を知らされながら(今年は奥方が代筆したそうだ)、なぜ電話もかけなかったのか、と。