全国初の裁判員裁判に対し、新聞、放送メディアが詳細な報道を連日続けている。さまざまな視点からとらえなければならないこの種の出来事については、まだまだインターネットより放送、放送より新聞がその機能を十分に果たし得るのでは。そう感じた人は編集者以外にもいるのではないだろうか。
3日目の5日、6人の裁判員の一人(若い女性という)が、風邪を引いて出廷できないという理由から男性の補充裁判員に交代する事態が生じた。今後、風邪にかかわらず途中降板というケースは結構あるような気がする。初日(3日)の法廷の模様を伝える記事の中に、気になっていた記述があったからだ。モニターに映し出された刺殺された被害女性の傷跡の写真に対し「男性裁判員は口を開けて息をのみ、女性裁判員2人もためらうように髪をさわったり、視線をそらせたりした」(朝日新聞4日朝刊1面記事)という。
41年前、通信社に入ってすぐの記者研修で警視庁の施設に連れて行かれたことがある。殺人事件や事故の被害者の写真を見たときの衝撃は相当なものだった。これらの人たちの生前の姿はどうだったのか。全く想像もできないような凄惨な写真の数々に、まさに息をのんだことを思い起こす。
病気で家族、友人を亡くした経験はそれまでにもあったが、殺人事件の被害者の遺体は、それとはまるで異なる。無論、映画などで何度も見た殺人事件のシーンなどとも別物である。被害者の遺体からは人間の尊厳など全く感じられなかったのが、一番の違いではないか。
裁判員の多くは、当方のような経験がない人たちだろう。殺人事件の被害者の遺体を見せられたときの衝撃は察するにあまりある。
しかし、それもまた民主主義社会のためには、必要な市民の義務なのだろう、とも。