想像していた通り全国紙、東京紙の1面コラムは、ほとんどが皆既日食に触れていた。マスメディアは文科系出身者が圧倒的多数を占める業界だが、こと天文学や宇宙の話となるとむしろ文科系記者の関心の方が高いのかもしれない。
リュディアとメディアという国が合戦に及んだ時、日食のために突如真昼が夜になり、両軍狼狽(ろうばい)し、和平を急いだ。ヘロドトスの「歴史」から引用した日経新聞の「春秋」に出てくる話に笑った。東京新聞の「筆洗」で紹介されているアウグスト・モンテロッソなるグアテマラ人作家の短編「日食」のあらすじはもっと面白い。グアテマラのジャングルで先住民に捕まった宣教師が日食になるのを思い出し、先住民を脅かそうとしたら何の効果もなく哀れ生贄(いけにえ)になってしまった、という話だ。欧州人などよりよほど早くから天文学に通じていたマヤ文明の子孫が、日食や月食を知らないわけはない。太陽を消してやる、などという脅しが通じるはずもない、ということだろう。
この話の前段にコロンブスの逸話と、マーク・トウェーンの小説が紹介されている。こちらは当然ながら「欧米=進んだ人種、欧米以外=遅れた人種」という図式だ。これを読んで編集者も思い出した小説がある。英国人作家、ヘンリー・ライダー・ハガードの「ソロモンの洞窟」だ。アフリカの先住民に危うく火あぶりに処せられそうになった主人公たちが、寸前に日食(月食だったかも)を予言し、先住民たちを恐怖に陥れ、無事、窮地を脱する。小学生の時は、ただ面白いとしか感じなかったが、相当、身勝手な話ではないか。
この小説は1950年に米国で映画化されている(スチュアート・グレンジャー、デボラ・カー主演)。最近になってDVDで見たが、どうも面白くない。CGなどという重宝なものもないし、特撮技術も進んでいなかったからだろうか。日食(月食?)の場面も全く出てこなかったし、小説では魅力的に描かれていた謎めいたアフリカ人青年(実は親族の陰謀で郷里を追われた王位継承者)を演じた俳優が、全くそれらしくないのにはがっかりした。
たまたま、今読んでいる中島敦の「光と風と夢」という小説に、突如、「何のことはない。まるで、ライダー・ハガードの世界だ」という文章が出てくる。この小説は、「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」などで日本でもよく知られる英国人作家、ロバート・スティーブンソンを主人公にしている。「宝島」も「ソロモンの洞窟」同様、子どものころ相当、興奮しながら読んだ物語だ。ウィキペディアによると「ソロモンの洞窟」は「宝島」に対抗して書かれた、とある。「光と風と夢」を読んでも、スティーブンソンがハガードをどのように見ているかは、判然としないが、「こしゃくな奴」とでも思っていたのだろうか。
さて、「ソロモンの洞窟」は編集者が最初に自分の小遣いで買った本だ。小学3、4年生のころ学校から帰った後の役目のひとつが、祖父に夕食の弁当を届けることだった。編集者の父も母方の祖父も農家の二男坊である。家を継ぐ義務も資格もなく、終戦までそれぞれ上海でサラリーマンをしていた。当然、職も財産も失って引き揚げるという運命になる。祖父は陶磁器の商社(当時、陶磁器は日本の数少ない輸出品だったらしい)をやめるときに、現物をもらったらしい。それを町中のバラックのような店で売っていたわけだ。弁当を届けた駄賃に毎日、祖父からもらったのが10円。200円たまるたびに講談社発行の少年少女世界文学全集を買ったものだが、どういうわけか最初の本が「ソロモンの洞窟」だった。
日食だったか月食だったかを事前に知っていた主人公たちが、アフリカの“未開人”たちの“無知“につけ込んで、脅かし、首尾よく火あぶりになるのを避ける。22日の皆既日食に興奮する気になれなかったのも、この場面のせいかもしれない。何年かすれば判で押したように現れるに決まっていて、予期せぬことといえば雲がかかって見えるか見えないかくらいの話。そんな自然現象に驚いていては、まるで「ソロモンの洞窟」の“未開人”みたいではないか、という気がどこかにあったりして…。