レビュー

編集だよりー 2009年7月1日編集だより

2009.07.01

小岩井忠道

 三遊亭円楽だったと思うが高名な落語家が昔、どこかに書いていた。新宿末広亭に出演していたある日、同亭の便所で小用の最中、ひょいと隣で同じように用をたしている人を見たら朝永振一郎博士だった、と。

 新聞の一面コラムといえば、それぞれの新聞社選りすぐりの書き手が書く看板記事である。このところ落語を引用した記事が多いように思うが気のせいだろうか。この日の日経朝刊のコラム「春秋」は、米軍の核持ち込みに関する日米間の密約を否定し続ける日本政府を、「だんだん」のやりとりを引きながら、揶揄(やゆ)していた。

 この記事を見たからというわけではない。友人から招待券をもらっていたので、立川志ら乃の落語独演会を新橋駅近くの内幸町ホールで聴いた。このホールは前にシンポジウムを聴きに来たことがある。手ごろな広さが落語にもぴったりだ。

 この夜の出し物は、「青菜」「笠碁」「居残り佐平次」という古典3席。「志ら乃大作戦第4話」と銘打っているところをみると、シリーズで古典を演じているのだろうか。「青菜」にこれは前に聴いた覚えがある噺(はなし)だ、と思い出す。面白い。最後の「居残り佐平次」もファンのリクエストが一番あったという演目だそうで、熱演である。主人公が最後の大芝居を打つ場面で声色がいかにも悪党らしく急変するのに、感心する。落語に詳しい人たちに言わせると「いくつかのパターンに分類できる」などという解説が聞かれるのかもしれない。しかし、思い出したようにしか聴かない編集者のような人間にしてみれば、ただ感心するばかりだ。廓(くるわ)という登場する人物の顔ぶれが限られる狭い世界を舞台に、よくもまあいろいろな話がつくられたものだ、と。

 「笠碁」が3つの中ではもっともよく知られる噺だろうか。編集者も何度か耳にした覚えがある。年のいった年配の落語家向きのネタなのだが、と本人が紹介していたが、なるほどという気がする。長年の碁敵(ごがたき)同士が「待った」を「認めろ」「そうはいかぬ」でとうとう「絶交!」という結果となる。このやり取りが傑作だ。その後、お互い余人を持って変えがたい友人を失ったダメージの大きさに愕然(がくぜん)とする。何とか元のように碁を打ちたいと双方“身もだえ”するところもまた格別だ。

 これは確かに本来、演じる方も年季の入った落語家向きのネタであるのと同時に、聴く方も同様の客にふさわしい噺ではないか。これぞという仕事がなくなったか、なくなりつつある高齢者にぴったりの…。ようやく気づいたというわけである。付き合ってくれる友人を探すのに一苦労。そんな時代が遠くないかも、などと思いながら。

 枕はほどほどに短く、途中に入れるアドリブも最小限で品も悪くない。志ら乃のような若手落語家の独演会は、お勧めものではないだろうか。真打ち昇進を射程に入れた伸び盛り。何より真剣だ。そんな噺を、落語に不向きの大ホールに客を集めるようになる前に手ごろな広さの会場で聴けるのだから。

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