レビュー

編集だよりー 2009年6月28日編集だより

2009.06.28

小岩井忠道

 神保町シアターで「南の風と波」という映画を見た。映画好きにはよく知られた作品なのだろうか。橋本忍氏が脚本(中島丈博と共同)だけでなく監督もしたこんな作品があるとは知らなかった。

 1961年の作品だ。舞台は高知県足摺岬の近く。当時の日本の漁村の人々はこんな暮らしをしていたのか、と考えさせられただけでも観る価値があった。地引き網というのは、浜辺に大勢が並んで網を引っ張るものとばかり思っていた。十の字型の棒にそれぞれ3人ずつ、全部で12人の男女が取り付き、黙々とロクロを回して綱を巻き取り、少しずつ網を浜辺にたぐり寄せる。こういう光景は実際にも、絵や写真でも見た記憶がない。

 今から見ると吹けば飛ぶような船とはいえ、大阪と行き来する機帆船の雇われ船長(西村晃)一家が出てくる。大阪から戻った主を囲む夕食の席に船長の母親(飯田蝶子)が加わろうとしたとき、小さな息子が祖母に向かって憎まれ口をたたく。「くさいくさい」。船長の妻(新珠三千代)は無論、子どもをしかるが、血相変えて怒るというわけでもない。当時、日本の農村や漁村ではよく見られた光景だろう。思えば編集者もそんな年齢になっているわけだが、小さな子どもの気持ちも分かる。昔の老人は独特の体臭を持っていたものだ。いまのように衣服を毎日着替えるなどという人は恵まれた一部の人たちだろうから、多くの老人は衣服にも体臭が染み付いて倍の体臭を放っていたのだと思う。

 登場人物の1人に機帆船員の孫を持つ老人(藤原釜足)がいる。孫が船に乗っている間は独り暮らしの老人宅に老女が大きな稲わらの束を届ける場面が何度か出てくる。そのたびに1束50円を要求する老女と40円しか払えないという老人のけんかが起きる。わらを運んできて1束40円か50円をもらい、そのわらを買った方はそれでわらじをつくってなにがしかの稼ぎにする。こんな人々が当時、日本には珍しくなかったに違いない。なにしろ、細部をおろそかにしない橋本忍の脚本、監督による作品だ。

 橋本忍というとすぐ思い出すことがある。黒澤明監督と共同で脚本を書き上げた名作「七人の侍」ができあがる前、実は切腹する侍の一日を描く、それも徹底したリアルな時代劇としてつくる話が進んでいた。橋本氏の著書「複眼の映像−私と黒澤明」(2006年、文藝春秋)にこんな話が書いてある。しかし、この話はあるところまで進んだのに、お蔵入りとなった。その結果、「七人の侍」が生まれたともいえるが、その時は、黒澤監督も大いに怒ったそうだ。

 なぜ黒澤監督の意に反してまで、この話が頓挫してしまったのか。登城する侍は弁当を持参したのか、それとも城で給食があったのか徹底的に調べた結果、作品の時代、徳川初期には侍はそもそも昼食をとらず1日2食だったことが判明する。これでは「侍がくつろいで昼食をとっていると…」という重要な場面がうそになってしまう。別の筋に書き変えなければならない。ついにうまい考えが思いつかなかったために、脚本完成を橋本氏が断念してしまった、というのだ。

 編集者が、この作品に大いに満足した理由は、橋本氏の脚本をすっかり信用しているからである。

 神保町シアターは、近くに入りたくなるような飲食店が並ぶ一角にある。昔の地方都市の映画館を思い出してなかなかいい。劇場の運営そのものも観客本意で、無論チケットはいつでも買え、整理番号がついているから上映開始の10分前に行けば係員の誘導で整理番号順に入場できる。神保町シアター同様、日本映画の名作をよく上映する東京国立近代美術館フィルムセンターを思い出す。1日2回しか上映せず、休館日もあるというのはまあ我慢しよう。しかし、上映開始直前まで客を待たせた上、到着順にホールに整列させ、小学生みたいに行列して2回のチケット売り場まで歩かされないとチケットを購入できない。これってお客本意というより、自分たちがやりやすいようにしているだけではないだろうか。なぜ到着順にチケットを売れないのか。そもそも1日2回しか上映しないのだから、時間はたっぷりあるはず。来た客から順に入場させるのがなぜ嫌なのか。

 一度、センターの責任者に神保町シアターを見学してもらうのが早道だろう。とにかく、映画館で毎回、毎回整列を強いられるなんて勘弁してほしい。そう思う映画好きは多いのではないだろうか。

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