レビュー

編集だよりー 2009年6月15日編集だより

2009.06.15

小岩井忠道

 飛び上がれば手が届きそうな民家のひさしにツバメの巣があった。5、6羽の幼鳥が顔だけ出して口をパクパクさせている。アニメーションでも見ているような妙な気分になった。考えてみるとこんな光景を見たのは大人になって初めてではないだろうか。ひょっとすると本や漫画で見た記憶だけが残っており、実際に見るのは初めてかもしれない。顔だけ出して並んでいる姿が、あまりに整然としていたので、そんな気になったのだろうか。生まれたばかりのちっぽけな小鳥たちに、こんな行動がとれるよう誰が教え込んだのか。自然の光景とは到底、思えないではないか、と。

 そのちょっと手前では、小川の橋の近くでツバメの成鳥が何羽も弧を描いて飛び回る光景にも出合った。近江路はすっかり夏である。

 週末を利用して、日本橋から断続的に中山道をたどってきたが、今回は関ヶ原を過ぎた地点、東海道本線柏原駅が歩き始めた地点だ。柏原宿、醒井宿、馬場宿、鳥井本宿。ここで初日の行程は終わり。彦根に宿を取り、翌15日は、さらに高宮宿から愛知川(えちがわ)宿へと2日かけて30数キロを歩いた。ツバメの巣に出合ったのは初日。柏原宿も醒井宿も昔の中山道を思わせる町並みが残されている。醒井宿では道ばたをきれいな川が流れており、大きな石でくみ上げられた側壁の見事さに驚嘆する。水を大事にしていることがよく分かる。

 清流にしか育たないと言われる梅花藻(ばいかも)が、川底、ところによっては川面に顔を出して流れに身を任せていた。名前の由来になった小さな花が愛らしい。

 宿を取った彦根市の中心部は、街道からちょっと外れたところに位置する。朝食の前に1人で彦根城を見学した。「井伊直弼と開国150年祭」という大きな垂れ幕の下がる彦根市役所の前を通り過ぎ、城の中堀、内堀を渡って坂道を上ると国宝の天守まで着く。天守前の広場ではNHKラジオの放送に合わせて2、30人の熟年者たちがラジオ体操の最中だった。

 戻りは途中から道を変え大手門から出る。内堀を渡って堀沿いに進むと立派な校舎の前に出た。まだ、中堀の内側である。彦根東高校だ。ことしの春の選抜野球大会で「21世紀枠代表校」として甲子園出場を果たした野球部や、スーパーサイエンスハイスクールとして活躍している生徒たちの姿が正門脇の掲示板に紹介されていた。彦根東という名前から彦根にいくつかある高校の一つだろう。ずっとそう思っていたのが、旧制のころは県立一中、つまり滋賀県で最も古い伝統を持つ高校と最近になって知った。

 実はこの高校とは、46年前、バスケットボールのインターハイで相まみえた間柄だ。偶然だとは思うが、ひょっとして、試合の組み合わせを決める際、遊び心を持った人物が仕組んだのだろうか。同校が幕末の大老、井伊直弼(彦根藩主)の居城である彦根城敷地内に建つなら、片やわが母校の水戸一高は桜田門外で大老を暗殺した水戸藩浪士たちの本拠、水戸城の本丸跡に建つ。こちらも旧制水戸中学、茨城県で最も古い高校である。仇敵同士が1回戦で当たったというわけだ。試合終了直前、ゴール下の相手センターにいいパスを入れられ、その1ゴール差でやられてしまったが実力は互角、いい試合だった。

 2日目に歩いた高宮宿は、麻布の生産地に近く、高宮布(近江上布)の問屋などが軒を並べていたという中山道有数の宿だ。昔の賑わいを思わせる町並みを過ぎてしばらくいくと小学校とは思えないような立派な校舎が道路脇に建っている。日本初の鉄筋コンクリート造りの校舎といわれる豊郷小学校の旧校舎だ。同校出身者で伊藤忠兵衛商店(現・伊藤忠商事、丸紅)の専務が米国人建築家の設計による校舎と構造を建設、寄贈したという歴史を持つ、という。新校舎への立て替えを進めようとした町長とこれに反対する住民たちとの10年にわたる争いで、最近まで日本中の関心を集めた。

 めでたく図書館などが入った複合施設として存続、再出発したということだが、この建物のすぐ先に建つ豊郷町役場に比べても、見栄え、大きさははるかに旧小学校校舎の方が立派である。

 つくづく考えた。小学校や旧制中学は、かつてはその地域でもっとも重要な施設だったのではないか。建物自体が立派なだけでなく、建設場所も城跡のような特等地が用意されたのだから。かつての教育に対する地域、住民の期待は、今と比較にならないくらい大きかったのではないだろうか、と。

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