レビュー

編集だよりー 2009年6月1日編集だより

2009.06.01

小岩井忠道

 読売新聞夕刊「こころのページ 文化」欄に載っていた多田富雄氏の連載コラム「落葉隻語」「『オガタマ』招魂の季節」にうなった。

 最初の13行でたちまちすっかり感服させられるが、すぐに大方の読者をほっとさせる話に転じるのが、すばらしい。「葉裏のそよぎも思い出誘いて…」。氏だけでなく、多くの読者も同じように少年少女時代に口ずさんだと思われるなつかしい唄が出てくるのだ。

 氏は免疫学者でありながら能の作者でもある。さらにその他有名な賞を受賞している数々の本の著者であることもよく知られている。編集者ごときが評するのはおこがましいので、氏の文章についてはこの程度でやめておく。

 氏は、同じ免疫学の分野で名高い石坂公成、照子夫妻の下で研究生活を送っていたことがある。石坂夫妻が米国ボルティモアのジョンズ・ホプキンズ大学医学部教授だったときか、その前、デンバーの小児喘息研究所にいたころのどちらかだろう。20年以上前になるが、当時ジョンズ・ホプキンズ大学教授だった石坂照子氏に聞いた話がある。

 研究室の多田氏の部屋には、入り口に「BAR TADA」という表札がかかっていた。実際に外国人研究者たちを引き入れて、よく飲んでいたそうだ。初めて“のれん”をくぐった“客”と、さぞや楽しそうにグラスを傾けていたに違いない。「TADAとはわが姓にして、No Chargeという意味でもある」などとのたまいながら…。そんな姿を想像して、照子氏の思い出話に大笑いしたことを思い出す。

 石坂夫妻を介して知り合った女性フリージャーナリストが、多田氏とも親しかった。それだけの縁で、山形市で開かれたある催しに多田氏と同席したことがある。氏が講演した後、フリージャーナリストを含めて鼎談を、という会だったが、無論、編集者の役割は時々、口を挟む程度でしかない。

 当時、今よりもさらに免疫の話はちんぷんかんぷんだった。氏の講演内容も高度で手に負えない。辛くもスライドのイラストが分かりやすくて見栄えがよいように見えた。会が終わった後、本質的なことは話題にできないので、つまらないことを聞いた。「あのイラストどこから手に入れたのですか」。この答えに驚く。「さあ、どこだったかなあ」

 講演や学会発表で使用するイラストの出所など気にしなくてもよい。そんな“寛容”な時代だったのだろう。

 「多田先生が突然味覚を失ってしまったそうよ」。女性フリージャーナリストから聞いたのはその後、何年かたってからだったように思う。脳梗塞で倒れられたのは、さらにそのだいぶ後ではないだろうか。テレビのドキュメンタリー番組や新聞記事でだけ近況を拝察するだけになっているが、逆境に陥っても変わらないものがあるような気がする。ユーモアの精神ではないか、と。

 氏を怒りにふるわせている医療行政、さらには日本社会のありように欠けているものは、ユーモアや寛容といった精神ではないだろうか。あらためて考え込む。

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