グランドプリンスホテル赤坂で開かれた山下敬二郎・レコード大賞功労賞受賞を祝う会に出た。
渡辺プロの創設者、渡辺美佐さんも会の発起人としてあいさつしていた。戦後ポピュラー音楽史をつくったような人々が、ずらり発起人に顔を並べていたのだ。渡辺美佐といえば長年、芸能界に君臨し、テレビ局も頭が上がらなかった。かつてそんな記事を週刊誌で読んだ記憶がある。話し方、容姿ともに、そんな雰囲気はまるで感じさせない。
渡辺美佐さんが仕掛け人とも言われる1958(昭和33)年の第1回ウエスタンカーニバルで山下氏は、平尾昌晃、ミッキー・カーチスとともに衝撃的なデビューを果たす。日本テレビ以外は、試験放送を始めたばかりのテレビ局ばかり。そんな時代である。情報の伝わり方は今とまるで比較にならないが、日劇でとんでもない事態が起きていることを知らない日本人などほとんどいなかったのではないだろうか。
ロカビリー3人男と言われた中で、一番若かったのが山下氏である。第1回ウエスタンカーニバルのときは、19歳になったかならないかだ。未成年のときから、ずっと無免許で車を運転していたが、警察につかまっても平気だった、と本人から聞いたことがある。渡辺プロが警察に掛け合っていつも握りつぶしてくれた、らしい。たぶん事実だろう。
渡辺美佐さんとともに発起人代表のような役割を務めていたのが、森喜朗・元首相である。山下氏とは親しい関係にあったわけではない、と本人が最初に認めていたが、そのあいさつを聴いて感心した。
ウエスタンカーニバルを見たくて、日劇の前まで行ったら、入りきれない大勢の人々が何重もの列をつくって劇場を取り巻いているのに驚く。結局、見るのはあきらめた、という話から始まった。これが最初にウエスタンカーニバルが行われた年のことだとすると、森氏は確かに20歳になったばかりで早稲田大学生だ。導入部のネタとしては適切だろう。
次に話は、山手線「高田馬場」駅前にあるダンス教室に移る。映画「Shall we ダンス?」(周防正行監督)の舞台になったのが、このダンス教室とはじめて知った。貧乏な早大生だった森氏は、ダンスにあこがれ、この教室を訪ねたという。1回のレッスンのために300円の券を買わされる。ジャズの踊り方を覚えたかったのだが、順序があるということでボックスをまず教えられた。2回目、300円の券を買ってまた行くと今度はワルツだ。次にまた行くとルンバ。そこでわが資金は切れ、とうとうジャズの踊り方は覚えられないまま、今に至ってしまっている…。
とまあ、大体そのような話だった。ウエスタンカーニバルを見たいと日劇前までは行った、という話は創作の部分があるような気がしないでもない。しかし、高田馬場駅前ダンス教室の方は、だいぶリアリティを感じる。何より巨漢の森氏とダンスの組み合わせに意外性があって面白い。氏のサービス精神が十分伝わってくるような話ではないか。
ただ、ジャズ、ジャズと何度も言われて山下氏がどう感じたか、その場ではちょっと気になった。山下氏は、ロカビリーの源流であるカントリー歌手を自認しているからだ。しかし、考えてみると氏をはじめとするロカビリー3人男がウエスタンカーニバルで爆発的な人気を得る前に活躍していた場は、「銀座ACB」である。この種の店は、当時、ジャズ喫茶と呼ばれていた。そもそも戦後、米国から入ってきたポピュラー音楽は、ひっくるめてジャズといわれていたように思う。
森氏の話に、違和感など持つ必要はなかった、ということだろう。