日本記者クラブ主催の上映会で、2008年3月に放送された東海テレビのドキュメンタリー「黒と白〜自白・名張毒ぶどう酒事件の闇〜」を観た。
今年の日本記者クラブ賞を東海テレビのプロデューサー、阿武野勝彦氏が受賞したのを機に上映会が設けられたのだ。受賞対象になったのは、「裁判長のお弁当」と「光と影〜光市母子殺害事件 弁護団の300日〜」といういずれも司法の問題をとりあげたドキュメンタリーである。これらのテレビで放映された作品とともに、同じ阿武野氏の労作も上映されたということだ。
名張毒ぶどう酒事件というのは、起きてから50年近くにもなるが、一定の年齢以上の日本人なら知らない人はまずいないだろう。新聞やテレビで報道される機会がたびたびあったからだ。地裁での無罪判決から高裁で一転、死刑判決に変わり、最高裁も上告を棄却し、死刑判決が確定する。しかし、数少ない物的証拠についての疑義に加え、そもそも自白が強要されたものだとする被告、弁護団の再審を求める活動はいまだに続いている。
事件が起きたのは小さな集落だから、ドキュメンタリーにも事件の現場にいた人々が何人も登場する。事件がどれほどの衝撃をこの集落に残し続けているか。新聞記事ではなかなか想像できない現実が映像から伝わってくる。何人かの住民が最初の供述を変えたことが、死刑判決に重大な影響を与えた、と見ているのだろう。作品は実際に住民たちにカメラとマイクを向けて、説明を求めるなど、丁寧に供述変更の“不自然さ“をつく。しかし、住民たちから決定的な答えなど返ってくるわけなどない。
「被害を免れた住民たちも被害者だ」。弁護士の言葉が心に残った。なんとしても「自白」とつじつまが合うような供述を得ようとする警察官の必死の誘導に抗するのは困難ということだ。自分自身の経験などから、何度も何度も「こうだったろう」「こうに違いない」と言われているうち、容疑者でもない人たちですら、そのうち実際にどうだったか自信がなくなってしまう。相当、しっかりしていると日ごろ自認していつ人間でも大いにあり得るのでは。小心なわが身を顧みて、心底、そんな気がする。
なぜ、自白が重視されるのか。これについて語る1人の弁護士の言葉も慄然(りつぜん)とするものだった。元裁判官だ。「検察官だって立派な人間。自白を引き出すためにまさかそんなひどいことをするはずない。裁判官はそう思いたくなるものだ」。そんな意味のことを言っていた。
2002年に強姦未遂容疑で逮捕され、懲役3年の判決を受け、服役した経験を持つ柳原浩氏も出てくる。服役後にたまたま真犯人が見つかり、07年ようやく再審で無罪が確定した人だ。「どうしてうその自白をしたのか」。どういう性格の会合だったか見落としたが、敵対する人でないことは明らかな人から問われたときの、怒りに満ちた目がすごかった。
「なぜかって。分からなかったらあなた自身が同じ目に遭ってみたらよい」
あのような状況に置かれて警察官の激しい調べに耐えられる人間などどれほどいるか! 質問を受けたときに、留置場で警察官に自白を迫られたときの屈辱的な記憶が一挙によみがえった、のではないだろうか。
目の中に見えたのは、質問者に対する怒りだけでなく、絶望的とも思われる悲しさ、悔しさだったような気がする。