連休中に片付けたいと思っていたことがある。夏目漱石の最後の作品「明暗」を読み終えることだった。2月初め、日本記者クラブで水村美苗氏の記者会見を聞いて思い立ったことだから、途中でやめにくい。実に3カ月もかかってしまったことになる。
水村氏の記者会見は、評判の著書「日本語が亡びるとき」について聞くために設定された。日本語が亡くなってしまう、というのは文章で飯を食ってきた者にとってただならぬ話、ということだろう。いつもより大勢の参加者が集まり、さまざまな質問が水村氏に浴びせかけられた。
この本は手強さそう。記者会見を聞いて感じた。まずは氏の「小説」に目を通した上で挑戦しないと歯が立たないかも。と選んだのが「続明暗」で、その前に「明暗」をと考えたのも、われながら真っ当な考えだったと思う。ところが、図書館で探した漱石全集(岩波書店)の中の「明暗」が、上巻と下巻に分かれているのをうっかり見落とした。上巻を読んで終わりと早とちりしてしまう。さらに「続明暗」を読み終えるまでそうと気付かなかったのだから、何ともお粗末である。じっくり読み込まず字面だけを追う読書習慣を、はしなくも露呈してしまったということだろう。
さて、妙な順序になってしまったが、とにかく「明暗」「続明暗」を読んだ感想はどうか。漱石が晩年、「則天去私」の心境になっていたということは聞きかじっていた。ところが「明暗」に出てくる主要人物は、高潔とは見えないような人間ばかりだ。身勝手、我が強い、お節介などなど、「則天去私」を体現しているような人物などいそうもない。「しかし、彼等らにも私だけで、天は少しもないのだとは、決して言い切ることはできない筈である」。下巻巻末についていた小宮豊隆の解説を読んで、「フーム」とは思った。しかし、これだけでは、漱石が「則天去私」の境地に達していたことは理解できない。
漱石は、一体、何を表現したかったのだろうか。困ったことに水村氏は、漱石ならこうしただろうと思う「続明暗」は書かなかった、と言っている。水村氏の「続明暗」から、即、漱石自身の考えた結末を類推してはいけないということだろう。
ところが、いろいろな人がいるものだ。ウェブサイトを探したら、「夏目漱石の『明暗』の結末」という長文の「解説」があった。筆者がどういう人なのかは皆目見当が付かない。しかし、時間をかけて検索を続けたものの、これ以上読みごたえあると思われる文章は見当たらなかった。筆者の主張の要点は次のようだ。
未完だけれど結末は近かった。書き始める前に、結末までのすべてのストーリー展開が出来上がっていた。実際に漱石が体験した3つの出来事「修善寺の大患」「妻、鏡子の最初の子の流産」「初恋の女性に会いに行った」が柱になって構成されている。従って、未完ではあるが結末がどうなるかを推測する材料はすべてそろっている、というのである。その上で、実際に筆者自身が推定した結末が紹介されている。興味を引かれた方には、直接、その文章を読んでもらうとして、これが実に面白いと編集者には思えた。
とにかく「続明暗」と、さらに再度「明暗」も読み返さないといかんかな。今度は字面を追うだけでなく、という心境になる。肝心の「日本語が亡びるとき」は、いつになったら読み始められるだろう。