人によっては連休初日となった4月29日、柔道全日本選手権をテレビ観戦した。決勝戦で、もし棟田康幸選手が勝っていたらどうだっただろうか。試合の半ば過ぎから余計な心配をしてしまった。若い穴井隆将選手に押しまくられる一方に見えた棟田選手に主審が一向に指導を与えようとしない。ポイントで棟田選手優勢のままで終わらせたい、と願っているのか。そんなことを考えてしまった。
グローバル化という言葉が洪水のようにあふれる時代である。柔道くらい日本流を貫いても、とは思うが、柔道関係者の間で議論にならないのか不思議なことがある。普通、スポーツは、選手も監督も簡単にタイムを取ることはできない。スポーツばかりか囲碁、将棋のような頭脳ゲームでも、同様ではないか。1分将棋になったら棋士は手洗いにも行けないはずだ。即座に相手に手を指されると、用を足している間に時間切れで負けになってしまう恐れがあるから。
棟田選手の試合運びで気になったのは、自分から技をかけていく気迫があまり感じられなかっただけでなく、うずくまってなかなか立ち上がらない姿がしばしばみられたことだ。決勝ではコンタクトレンズが外れ、はめ直す場面もあった。そもそも柔道には、試合中の帯の締め直しを含め、試合が中断される場面がよくある。スタミナ不足の選手に有利に働き、不公平といえないだろうか。
ちょっと前に囲碁棋士の小川誠子6段と懇談する機会があった。囲碁は基本的なルールを知るくらいだが、呉清源の半生を描いた中国映画「極みの棋譜」(田壮壮監督、チャン・チェン主演)を見ていたのが幸いする。話が弾み、なかなか聞けないような興味深い話をうかがうことができた。小川6段は、14歳で全日本女流アマチュア囲碁選手権大会で優勝し、名人、本因坊などタイトル保持者を数多く育てた木谷実の内弟子になった人だ。木谷実は呉清源のライバルで、2人で新布石を作り上げたことでも有名だから、映画「「極みの棋譜」にも当然、重要人物として登場する。小川さんは碁石を扱う指先の動きなどチャン・チェンの演技指導などで協力したという。
1928年、14歳で中国福建省から来日した呉清源が、日本の有力棋士を次々に破ったことはよく知られているが、小川さんの話で面白かったのは、本因坊との試合のもようだ。一日に1手も打たないまま「きょうはこれでやめ」と本因坊が一方的に宣言して終わってしまうようなことがあったという。何日もかけての勝負である。難しい局面の時に本因坊が次の石を打たず、勝負が再開されるまでの間に弟子たちが皆で次の手を考えたのでは、と当時ささやかれた、ということだった(ということは封じ手というルールもなかったということか)。
それがどの勝負だったのか後でWikipediaで調べてみて、呉清源が来日して5年目の1933年、本因坊秀哉との記念碁のようだと知る。持ち時間はあったが何と双方24時間。打ち掛け13回、4カ月かけた戦いの結果、本因坊秀哉の2目勝ち、と書いてある。
持ち時間が今のように短くなるにつれ、ベテラン棋士には不利になった、と小川さんは言う。体力のある若い棋士が有利になってきたということだ。
日本柔道もいずれは試合の中断などにうるさくなり、年齢が高いベテラン選手には厳しい時代が来るだろうか。