レビュー

編集だよりー 2009年1月29日編集だより

2009.01.29

小岩井忠道

 岩波ホールで、グルジアの映画「懺悔」(テンギス・アブラゼ監督)を見る。1度観たがいくつか気になるところがあるので2回目である。

 内容は実に多くのことを含んでおり、世界中で大きな関心を呼んだ作品だと十分に分かる。さらに内容以前にも驚くことが多い映画だ。グルジアがソ連の中に完全に組み込まれていた時期の1984年につくられた、というのがまずすごい。粛正に次ぐ粛正を重ねたことで知られるスターリンを思わせる主人公が出てきて、似たような恐怖政治を行う内容なのである。ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長によるペレストロイカ政策が打ち出されたのは、1986年。映画が完成して2年後のこの年にグルジアの首都で公開され、翌87年にモスクワで公開され大勢の観客が観たという。ソ連の解体という世界史上でも大変な出来事と歩調を合わせるように作られ、鑑賞された映画と言えそうだ。

 モスクワでの公開からさらに22年、日本で初めて一般公開されたことについてもなかなかの理由がある。全世界が注目する作品の世界配給権を買った米国の会社が、当たりそうもないという理由で日本の公開を見送ってしまったというのだ。世界配給権がロシアに戻ったのを機に、ようやく日本でも一般公開が可能になったということだった。

 さて、内容である。一度観て一番気になったのが、冒頭と幕切れの場面の関係だった。少女時代に独裁者に両親を連れ去られ、粛正された主人公の自宅兼ケーキ店らしきところで、客とおぼしき男が新聞を読んで大声を挙げ、嘆き悲しむところが導入部である。新聞に大きく載った死者の写真を眺めた主人公が、冷ややかな言葉を客に送る。

 そこで場面はこの死者の葬式に変わる。時の流れから言えば何の不思議も感じなかったし、最初に観たときは、実は終わりのシーンの奇妙さも特に気にならなかった。しかし、2回目を観る前から、シナリオの流れにどうにも理解困難な点があることに気付く。葬式の場面から既に、女主人公の夢想と回想であるらしいということだ。そう考えないと最後に冒頭の場面が再び出て来て終わりになるのが、どうにもつじつまが合わない。問題はそうであるとすると、映画の中で描かれる劇的な展開の相当部分は、何一つ実際には起きていない女主人公の夢想でしかないということになることだ。

 厄介なことに夢想の途中から、実際に女主人公が経験したことと思われる回想場面が出てくることだ。独裁者の墓を暴いた女主人公が裁判にかけられ(ここまでは実際に起きていないことだろう)、独裁者の悪行を次々に暴露する。この場面だけは実際にあったことと思われる。そうでないと、この作品の説得力が雲散霧消してしまう。とにかく作品全体が、女主人公の夢想でその中に長くて重要な回想場面が挿入されているという何とも複雑ですぐには理解困難な構成になっているらしいのだ。

 実はそれも確信がない。最後の場面で、冒頭、独裁者の死を嘆き悲しんだ男が妙なことを言うのである。「15歳彼が年上だった。生きていれば、今年78歳だ。彼は本当に充実した人生を送ったよ」。オイオイ新聞で死亡を知ったばかりの人間に対し「生きていれば、ことし78歳だ」なんて言う人間がいるものか。となると、冒頭の場面と最後の場面は、出ている人物が同じで、時だけ映画で描かれた時間同様経過したというのだろうか。2人とも全く同じ服装をしているのに。2度観て、プログラムに入っている脚本を読み直し、かえって頭が混乱してしまった。だれか、明快に解説してくれる映画好きはいないだろうか。

 小泉堯史監督の「博士の愛した数式」の最後のシーンを思い出す。成長して教師になった主人公が、生徒に博士との昔の触れあいを話した後、窓の外を観る場面だ。そこに映し出された光景は、子ども時代の主人公が博士と浜辺でキャッチボールをしており、それを母である女主人公と博士の義姉が寄り添って眺めるジーンと来る映像だった。原作の小説にはない。そもそも主人公が教師になり昔を回想するという話の運び自体が、小泉監督による脚本のオリジナルなのである。

 「あの場面は、主人公が実際にあったことを回想しているのか、それとも実際になかったことを主人公が夢想しているだけなのか」

 小泉監督に昔聞いたことを思い出す。

 「どっちでもいいよ」。監督の返事だった。

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