都心のホテルで開かれた高校の同窓会新年会に出た。最年長者は昭和16(1941)年卒、2番目が昭和17(1842)年卒の先輩だった。当時は旧制中学の時代である。
昭和17年卒の先輩は、旧制中学を卒業後、満州(当時)の首都、新京(長春)にあった建国大学に進学した。同窓会報に記事を載せるため、だいぶ前に詳しく半生記を伺ったことがある。敗戦でソ連軍に追われ山中を逃げ回ったがついにとらえられシベリア抑留、という経験を持つ。「窓は夜露に濡れて 都すでに遠のく…」。小林旭が歌って大ヒットした「北帰行」を作詞・作曲した宇田博(故人、元TBS常務・監査役)が、建国大学予科にいたことがあるという話もこの先輩から聞いた。
宇田氏は建国大学予科を退学(理由失念)させられた後に、旅順大学に入ったがこちらでも女性と会ったのをとがめられ、再び退学処分となる。旅順を後にするときに創った歌が「北帰行」という話だった。
新年会のあいさつで披露された話に驚く。東亜同文書院出身の建国大学時代の恩師が100歳になってなお健在で、年賀状をもらったとのこと。そこに、昨年前半の芥川賞を受賞した中国籍の作家、楊逸さんの小説「時が滲む朝」を読んだ、と書いてあったというのだ。100歳になってまだ小さな字を苦にしないのか。後何年生きると自分は100歳に。参加者たちはそれぞれ頭の中で計算したのではないだろうか。東亜同文書院も建国大学同様、今や知る人は相当な年配の人だけになってしまっただろう。ただし、編集者にとっては遠い存在ではない。父(編集者の高校の先輩でもある)が、旧制中学を卒業して進学したのが、上海にあった東亜同文書院だからだ。1県1人という政府の給費生だから学費の心配はなかった。
最年長の先輩は、石川島播磨に長年、勤められた方だ。旧制中学から旧制高校に進み、卒業年から掲載すると大学の卒業は昭和22、3(1947、8)年ごろになる。東京帝国大学最後のころの卒業生になるのだろうか。造船学科を出たが、入社当時は漁船の修理のような仕事しかなかったという。「90までは生きられそうだからよろしく」と皆を笑わせていた。
わが高校の首都圏同窓会は毎年2月に総会と懇親会を都心で開く。この会には著名な先輩を招いて講演してもらうのが、ここ30年ほど恒例になっている。「日本列島改造論」を唱え、実行した田中角栄・元首相のブレーンだったことでも知られる下河辺淳・元国土事務次官が、27年前の1982年に講演をされている。新年会に参加した最年長の先輩と同じ昭和16年卒だ。講演で強調されたことは「20世紀のうちにどうしても人生80歳という社会制度を作っておく必要が出てきている」というものだった。当時(1982年)の平均寿命は男74.22歳、女79.66歳である。
人生80歳というのは、成人になってからさらに半世紀以上生きるということ。どうやってこれだけの長い年月、生きがいを持って生きるかは、人生50年時代よりはるかに難しい。職業も一つではすまされない。定年55歳とか60歳とか、65歳とかと、ちょびちょび延ばすという姑息な対応で済むものではない—。そんな内容であった。
平均寿命は、下河辺氏の講演を聞いたときからさらに延び続けている。「人生90年」という言葉を政府の文書の中で最近目にした記憶がある。
ホテルのバーでの2次会に続き、電車に乗る前、居酒屋での最後のちょっと一杯の席で「今の高校生の後輩たちが、総会の幹事をやるころ(高校卒業後29年目に幹事をやることが決まっている)には、人生100年ということになっているのだろうか」と聞いてみた。
「いまの若者は100歳までなど生きられない。小さいときから妙なものばかり食べさせられているから、それらが体に蓄積し、とてもそんなに長生きなどできない」。歯科医の後輩が言った。果たして、この見通しは当たるだろうか。