レビュー

編集だよりー 2008年12月11日編集だより

2008.12.11

小岩井忠道

 ロサンゼルス・タイムズやシカゴ・トリビューンなどを発行する米大手メディアのトリビューンが経営破綻、というニュースに驚いた。数年前から内外を問わず活字メディアが勢いを失いつつあるのは感じていたが、こんなに早くというのが正直な思いである。

 ジャーナリズムの柱、基盤は新聞が担っており、広告収入でテレビにトップの座を譲った後でも、ニュース報道における社会的影響力は上。長い間、多くの新聞人はそう自負していたと思う。例えば、NHK夜7時のニュースの伝達力は飛び抜けて高く、さらに特ダネを流せば、新聞、通信社もあわてて取材し、追いかけてニュースにする。だから、間接的な影響力も抜群、という見方も成り立つ。しかし、社会の指導的な立場にある、あるいは働き盛りの人間で、この時刻、確実にテレビを見ている人がどれだけいるか。テレビのニュースをビデオなどで見直すということも通常あり得ないから、結局ものを言うのは新聞、あるいは新聞記事のコピーの方だ、と。

 実は通信社記者だった編集者もそう思っていた。ただし、数年前までは、である。メディア業界を離れて、新聞を読んでいる(と思われる)人がいかに少なくなっているかに気付き、考えを変えようかという気分になりつつある。新聞を購読していない家の子どもが、将来新聞を読むなどということはまず期待できない。読まない層が年々、年を取り、さらにその後に読まない世代が続くわけである。現実は、多くの新聞人が考える時点よりはるかに先に進んでしまっているような気もする。

 先日、通信社時代の同期生、数人と飲んだとき、元編集局長・編集担当役員が笑っていた。いま、ある私大の非常勤講師をしている。「田中角栄を知っている学生がいないんだよ。仕方がないので、田中真紀子さんの親父、と説明する」。現代史が大学の入試に出ないのは昔からで、多分、高校側も大学入試に出ないことを教えても仕方ない、となってしまったのだろう。いまの社会のありようは大学生や社会人になってから少しずつ学ぶ、という若者が今も昔も多いはずだ。学校で習わないことを知る。それに欠かせないツールの一つが新聞だったのではないだろうか。少なくともこれまでは。

 この会合で、別の同期生は、「新聞なんか読まないから(何を書かれようと平気)」と記者団に向かって言い放った麻生首相の発言を嘆いていた。文句ばかりつける新聞記事にイライラが高じ。そんな売り言葉に買い言葉的な発言だろう、と編集者などは軽く考えていた。だが、首相は本当に新聞を読んでいない、と受け取った国民が大勢いたとしたら影響はどうか、と言われると考える。

 トリビューンの経営破綻を伝える10日の朝日新聞朝刊に編集者が知らなかった事実が書かれていた。「ニューヨーク・タイムズが今年10月、米大手格付け会社から投資の格付けを一気に3段階低い『投機的』とされる水準に下げられた」

 なるほど、日本の新聞を米国の新聞と同列に考えなくてもいいかもしれない、と思い直す。苦しいのは米国も日本も同じだろうが、まだ日本の新聞の方が強いかもしれない、と。株を公開し常に株主と株価を気にせざるを得ないテレビ局は日本にもあるが、主要な新聞で株を公開しているところは多分ないか、あったとしても例外的だろうから。

ページトップへ