レビュー

編集だよりー 2008年11月24日編集だより

2008.11.24

小岩井忠道

 仁右衛門島という妙に気が引かれる島を訪ねた。代々、平野仁右衛門を名乗る家の所有地で、島の大きさは一回りするのにそれほど時間も掛からない広さだ。とはいえ、島には所有者である平野家一軒しか住家はない。元禄地震(1703年)の大津波に襲われた後に建てられたという平野家の家屋が残っている。伊豆・石橋山の戦いに敗れた源頼朝が一時、平野家にかくまわれ身を隠していたという洞窟(どうくつ)や、日蓮が旭を拝した岩などと記された場所を見て回った。一回りしてあらためて陸側を眺めると、海岸のすぐそばまで迫る急ながけと海面との間のわずかな土地に多くの住宅がへばりつくように軒を接している。平野家の力、平野家と対岸の住民との歴史的な関係にしばし、思いをめぐらした。

 半島側から見ると島は手が届くような距離(200メートルと書いてあるが、とてもそんなにあるようには見えない)なのに、橋が架かっていない。わずか一軒の島の所有者兼住民のために公費で橋を架けるわけにはいかなかったのだろうか。平野家がそう望まなかったからのような気もする。

 島との往復は、2つの櫓(ろ)を備えた小さな渡し船だけだ。大人往復、1,350円という料金に一行、顔を見合わせたが、われわれの後から親子ずれやつり客などが次々に、渡し船を利用していた。

 「海のそばでうまい魚でも食べよう」。前日から鴨川へやってきたのに、それ以上の理由はない。時々、1泊旅行をする高校の先輩、同級生総勢4人のグループである。民宿を見つけ出したのは先輩で、ウェブサイトからだった。独り暮らしの女主人(75歳)が切り盛りしている。夏は客が多いので親類の女性の加勢を頼むそうだが、この時期は一切合切1人でやってしまうという。「昔を思えば、つまみをひねれば火がつくような今の生活など夢のよう」。この世代の農漁村育ちの女性はたくましい。若いころからこの地で海女をしており、いまでも海に潜ってアワビを採っている。夕食にそのアワビが出て来た。そのほかに1人1尾ずつ伊勢エビのおどり、大皿に刺身の盛り合わせ、大きな金目鯛の煮付け(これはさすがに4人に1匹だったが)…。料理は十分すぎるくらいだ。

 さらに、満足させられたのが、宿の女主人の話だった。まずは宿に到着してあいさつもそこそこに、地元の有名な病院が俎上(そじょう)に挙がる。最近、頭が心配なので、診てもらおうと出かけたら全身をくまなく調べられて8万円とられたとのこと。「頭だけ調べてくれればいいと言ったのに、頭が痛いと言っても原因はどこにあるか分からない、と言われ。こんな年寄りにそこまでしなくてもいいのに」。太平洋を見渡せる豪勢なレストランがあり、こんなところで食事などしなくてもよいと言ったら、最初から食事代も費用に含まれていると言われたそうだ。評判がすこぶる高いのは、地元以外の人たちにであって、地元の人間からみると、特にありがたいこともないということらしい。

 同じ鴨川にできた私立大学もやんわりとやり玉に挙がる。「私ら若いとき戦争で勉強などできなかったので、いまからでも大学で勉強したい。歴史も知りたいし。でも、福祉や観光学部が主の大学じゃね」

 ヒラメは冬がいい。それ以外は、牛乳みたいに白く濁ってしまってまずい。次に夏前に来るなら6月ごろね。私が採ったウニも食べさせられるし。まあ偉そうなことも言えないか。それまで生きているかどうかも分からないのに…。

 女主人の言葉から感じ取れる知性に一堂、すっかり感服して宿を後にした。帰り道に勧められたのが、宿のすぐそばにある仁右衛門島だった。

 島の散策路に沿って立つ句碑の中に「あるときは舟より高き卯波かな 鈴木真砂女」というのがあった。

  どうしてこうした句碑があるかも分からなかったし、そもそも卯波というのが初めて目にする言葉だった。しかし、真砂女という名はかすかな記憶がある。確か銀座で小さな店を営みながら老境に至るまで活躍していた俳人ではなかったか、と。

 帰京後、目を通していなかった新聞を読んだら、日経新聞の23日朝刊に「鈴木真砂女の華やぎ」という瀬戸内寂聴さんの記事が載っていた。不倫の恋その他波乱に満ちた真砂女をモデルにした「いよよ華やぐ」という小説を寂聴さんが書いており、親しい仲だったそうだ。記事の中で、老人保健施設に入る年齢になってから俳人としては最高の賞という「蛇忽賞」を受賞した時のことが書かれている。寂聴さんが贈ったという着物を着て授賞式に臨んだそうだ。式のあいさつで、朝、着物を着終わったら畳の上で転んでしまった、ということを紹介した後に、次のように言ったという。

 「昔は心がよくよろめいたものですが、今は体が…」

 真砂女や民宿の女主人など、鴨川あたりで育ったある世代の女性には独特のユーモア感覚があるのだろうか。そういえば編集者の郷里、茨城にも親類の年配女性などには、似たような気風の女性が少なくなかったような気がする。編集者も子どものころよく、冗談や冷やかしの対象にされたものだ。今はどうなのだろう。

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