日の出をホテルのレストランの窓越しに見ながら早い朝食を済ませ、稚内港から利尻島行きのフェリーに乗る。朝の5時過ぎというのにレストランはいっぱいだった。皆、利尻島あるいは礼文島へ最初の便で渡ろうという宿泊客だろう。どちらの島を先にするにしても、2つの島を結ぶフェリー便と、それぞれ島内の観光バスの時間がうまく設定してある。1日で両島を回って夕刻には稚内へ戻って来られるのだ。編集者は、便の変更ができない割引航空券のため、正午過ぎには稚内に戻らなければならない。利尻島だけ駆け足で見て来ることにした。
前々日に礼文、利尻両島めぐりを済ませた仲間が、利尻島で案内してもらったタクシーの運転手に電話を入れて、料金交渉までしてくれている。島のフェリーターミナルで編集者の名前を書いた紙を掲げた運転手の出迎えを受けた。観光バスに乗り込むフェリーの乗客たちを後に、早速、姫沼に案内してもらう。美しい沼だ。「ヒメマスを養殖していたことがあり、それで姫沼という」。その時は運転手の言葉をフムフムと聞いていたが、後で気になった。ヒメマスの養殖をする前は、何と呼ばれていたのだろうか、と。
わき水でできた沼で、さほど標高は高いと思われない。なのに沼からの排水を利用して水力発電を行っているとのこと。観光バスの客が到着するのと入れ替わりに沼を後にし、海岸のすぐそばにある小さな発電所に連れて行ってもらう。「日本には数キロワットから数百キロワットのマイクロ水力の開発サイトが、中小河川だけでなく至るところにある」という小林久・茨城大学農学部准教授の話を思い出した(2007年11月2日ハイライト「マイクロ水力開発への期待」参照)。
発電所からは道路を挟んですぐ海面だ。「河口と間違ってサケが集まってくる」。半信半疑で聞いたが、運転手の指さす海面を見たら、道路から数メートルしか離れていない水中を数匹のサケが集まってうろうろしていた。発電所排水の出口と海面とはちょっとした段差がある。サケは入り込めないのだが、あきらめきれないということなのだろう。長い棒のついた網でも伸ばせば苦もなくすくい上げられそうだ。地元の漁師は沖合で漁をし、海岸近くの魚には目もくれないので、この辺りの魚は漁業権など難しいことを言わず勝手にとってよいらしい。
次に案内してくれたのが、わき水「甘露泉水」のわき出し口。日本名水百選の一つという。エゾマツやトドマツが立つ林の中に、利尻山に向かう登山道がきちんと整備されている。しばらく歩くと、知らなければ見過ごすかもしれないようなわき出し口が道端にあった。名水といわれれば、そんな気も、という味だった。
「昔はトドマツを切って家を建てる木材にしていたものだが、今は木工所もなくなってしまって」と運転手。かつて2万人を超えていたこともある島の人口は、いまや利尻、利尻富士の両町併せて6千人に満たない。利尻の自然は厳しく、ニシン漁が盛んで人口が多かったころも、多くの人が水や燃料となるたきぎの不足で苦労したという。「コメはできないし、野菜も十分になかったからね」。今も島は観光客の減少という悩みを抱える。この夏、島を訪れる人々は前年より10数パーセント減ったとのこと。「10月からフェリー料金も上がるし」。原油高は、利尻の経済も直撃しているようだ。
島の西側に「会津藩士の墓」があった。1807年から08年にかけて徳川幕府の命により奥羽各藩が樺太、宗谷、利尻一帯に6千人以上の藩士を送り込んだという。ロシア人の侵攻に対抗するためだ。初めて知る話だった。会津藩だけで1,600人を超えたというから藩にとっては相当の負担だった、と想像できる。
利尻町のホームページによると、利尻には252人の会津藩士が送り込まれ、結局、戦闘することなく2カ月ほどの滞在で帰途についたという。大半は会津に帰り着いたようだが、病気にかかってこの地で命を落とした藩士もいた。「ロシア軍との戦いはなかったが、会津からここへ来るまでに藩士たちは疲れ切ってしまった」。運転手の解説だ。
帰りのフェリーに乗る前、ターミナルそばの食堂で「ウニ丼」を食べる。予備知識なく、このどんぶりを見たらさぞ感動するだろう。そう思いながら、ほのかな塩味のする大量のウニとご飯をかきこんだ。