30度を超す炎天下、前日から2日がかりで馬籠宿から落合宿、中津川宿、大井宿を通過、細久手宿の手前、JR中央線武並駅まで中山道の24キロを歩いた。前回、6月に中央線須原駅から馬籠まで歩いた際にも中津川で一泊したが、今回も、途中、同じホテルに泊まる。夜、ホテルのすぐ隣にある小さな居酒屋を再訪、地元の酒で一杯となったが、ここの女主人が最初に来たとき同様、つまみや料理をさっぱり勧めない。やむなくナスの漬け物のおかわりを頼む。よほど金がなさそうに見えたらしい。
前回、妻籠から馬籠までの上り下りも相当なものだったが、今回の特に馬籠から落合に至る道にもすっかり感心した。2日目、中津川宿で手に入れたパンフレットにこの辺の中山道の標高が一目で分かる図が載っている。妻籠から馬籠峠(標高801メートル)まで、何と約380メートルもの標高差だ。馬籠峠からは一転、下る一方で、馬籠宿までがわずか3キロちょっとなのに標高差は約180メートルもある。そもそも馬籠宿全体が坂道の途中に位置しており、宿の端から端までこれほど高低差がある宿場がほかにあるとは思えない。
初日、この馬籠宿までJR中津川駅からバスで行き、中津川宿まで歩き始める。無論バスで来た道を戻るのではなく、中山道だ。またしても続く下り坂。「是より北 木曽路」。島崎藤村揮毫による石碑がある場所で木曽路も終わり、これから美濃路となる。この辺りも昔の街道の面影が十分に感じられ、途中、約800メートルあるという石畳の坂道の立派さに感心し、往生した。荒れ放題だった石畳を1992年に修復したというのだが、傾斜が相当ある上、コケで覆われた石に足をとられそうで危ない。前述の地図で確認したら、馬籠宿から落合宿までこの石畳路を含む7キロ弱の行程で約290メートルも下ったことになる。馬籠という地名のいわれが、馬と籠(かご)がなくてはならぬ運搬手段だったから、と途中の表示にあった。納得である。
徳川幕府第14代将軍家茂へ降嫁した皇女和宮に関する表示を、今回も途中あちこちで見ることができた。中山道は、徳川幕府の意向でわざわざ通行しにくいルートに設定されたともいわれるらしい。「何でこんなところを通ったのか」。碓氷峠や和田峠でも思ったものだが、妻籠から馬籠、大井宿に至る道も相当なものだ。和宮一行も、江戸に着いたときは万歳でもしたくなるような心境だったのではないだろうか。
途中の表示板に、和宮の行列は総勢26,000人だったと書いてあるのを見た。徳川方から出迎えたのが15,000人あるいは20,000人といった数字をウェブサイトで見ることができるので、京都勢を加えると、そんな人数になるのだろうか。2人ずつ並び、前の人間との距離を平均1メートルとすると、先頭から最後列まで実に13キロ。落合宿から馬籠宿さらに馬籠峠を越えて妻籠宿までの距離に相当する。大半の人間は、夜、道ばたにでも寝ていたのだろうか。