オリンピック野球の準決勝の結果に多くのスポーツファンがため息をついていたころ、郷里の出身高校の体育館で後輩たちが懸命にバスケットボールを追いかける姿を見ていた。毎年、この時期、母校の後輩たちが合宿をするのが通例になっている。激励のため寸志を携え、母校を訪ねるのが編集者の習慣にもなっている。
「一緒に行こう。ついてはせっかくだから地元の先輩たちにも会いたいねえ」。母校バスケットボール部OB・OG会東京支部の会長を務める先輩から数日前、そんな電話をもらった。「現役たちを激励した後、郷里の先輩たちと一杯やりたい」という意味だ。すぐに地元の取りまとめ役をしている後輩にメールを送る。「午後4時半、体育館集合。6時から○○で懇親会」と早速、元顧問の先生方や、先輩たちに招集をかけたという返事が返ってきた。
サイエンスポータルの編集作業を昼過ぎまでに仕上げ、午後、年休をとり、上野から「スーパーひたち」に乗る。1時間ちょっとで、東京とは文化がえらく異なる郷里の風に触れることができる。編集者たちが体育館に着くのと前後して高齢のOBや元顧問の先生たちが次々に顔を出し、10人ほどになる。
インタハイ県予選を最後に3年生は引退しているので、コート上で走り回る現役勢は1,2年生だ。若いOB・OGはスポーツ着に着替えて練習に加わっていたが、無論、高齢者は練習を見るだけである。あらゆるスポーツ同様、バスケットボールも変わっていることがよく分かる。押し合いへしあいにも負けない。そんなプレーを目指した練習が目を引いた。編集者のころとは練習法もだいぶ違う。
練習を中断して、整列した現役後輩たちに、帰り際、高齢OBや元顧問の先生たちが一人ずつ激励の言葉を送る。「苦しくても絶対に部をやめないように」という声が、複数の先輩から出た。部員が少ないのが慢性的な悩み。そんな県立進学校である。編集者が入学した当時、志望大学を書かされた際、大半の生徒が「東京大学」と書いた、と聞いた。1年後には、東京大学と東北大学が約半数ずつになり、3年時になると志望先もそれぞれ分相応に散らばったらしいが…。
さあこれから、というときに「勉強優先」などの理由で有力部員が退部してしまう。選手あるいは顧問、コーチとして何度もそうした悲哀、憤まんを味わわされた人たちばかりだ。つい、昔を思い出し本音がこぼれたということだろう。
実は、編集者は合宿のつらさに関しては偉そうなことを言う資格がない。2年のとき、春に急きょ、合宿となった。校内の施設で寝泊りし、昼は授業を受け、放課後夜まで練習する。ところが思わぬことが起こった。まだ数日を残す時点で、食中毒が発生、部員の何人かが練習どころではなくなってしまったのだ。食事はマネージャーと1年生部員が慣れぬ手つきでつくっていたが、卵が悪かったらしい。合宿は急きょ中止、その年の夏の合宿も行われなかった。
結局、編集者は死ぬような目に遭った合宿の経験がなく、がから、いまだに後輩たちに偉そうなことは言えない。この日も「長い人生で、こんな経験ができる日々はほんの1時期。まあ、頑張って」というくらいにとどめる。
練習を続ける後輩、顧問の先生を残し、高齢の先輩、元顧問の先生たちと居酒屋へ移動した。この顔ぶれで歓談するのはこれで何度目か数えられないが、毎回、初めて聞く昔話が出てくるのに、驚く。最年長、ことし83歳になる先輩から、県の円盤投げ大会に出たら優勝してしまった。国体に出場した後、汽車を乗り継いで帰郷し、自分の結婚式にすれすれ間に合った、という話を聞く。「遅れたら兄が新郎の代役を務めることになっていた」と聞いて笑う。
母校の校長と県教育委員会の要職も務めた元顧問の先生たちもいる。当然、教師採用試験に絡む贈収賄事件で揺れる大分県教育界の話題も出る。わが地元にはない、ということで安心した。