「科学離れ」や「理数離れ」という言葉を安易に使っていたかも。都甲潔・九州大学大学院教授のオピニオン記事「おいしさを目で見る」(7月23日掲載)で反省させられたばかりだが、日本学術会議言語・文学委員会の報告「日本語の将来に向けて -自己を発見し、他者を理解するための言葉-」(8月13日ニュース「学術会議が日本語教育重視を提言」参照)を読んで、なおさらその思いを強くした。
都甲教授は、次のように書いていた。「昨今『理科離れ』が頻繁に叫ばれている。しかし、よく考えて言葉を厳密に使いたい。『理科離れ』ではない、『勉強離れ』なのだ。日本語を書けない、しゃべることのできない学生がなんと増えたことか。それは、小中学校時代の教育が間違っているからである」
日本学術会議の報告は、グローバルな時代だからこそ、個人の考える力やコミュニケーションの能力が重要。その基礎となるのが「言葉」であり、それは「他者を理解するための言葉」でなければならない…などなど、母語としての日本語能力の重要さを強調し、特に小学校段階での英語教育導入には疑問を呈している。
小中学校の理数科、英語の授業時間増が盛り込まれた新学習指導要領が公示されたのは、この3月の話である。日本学術会議言語・文学委員会にすれば、特に小学段階では理数科や英語よりむしろ国語教育強化のほうが喫緊の課題、ということだろう。
数年前に聞いた国立大学教授(応用物理学者)の言葉が、いまだに耳に残っている。「入試科目を減らしたのが失敗だった」。大学生の学力低下についてのコメントだ。高校までにもっと幅広い知識を身につけて大学に来てほしいということだろう。理数も英語も国語も大事、社会だって同じとなれば、まず国立大学法人からでも、入試科目数を昔に戻す動きが出て来ないものだろうか。
国立大学の入試科目減は、受験地獄の緩和が理由の一つだったらしいが、少子化の時代、昔、社会問題になったような受験地獄の再来など心配ないのではないか。むしろ入試科目が少ないほうが、高度なノウハウを持つ受験産業にアクセスできる一部の受験生に過度の恩恵を与える結果になっているようにも見える。