小説の読み方も前向きではないか、と苦笑いしつつ横山秀夫著「震度0」(朝日新聞社)を1日かかって、読み終えた。横山氏の小説なら、読んで後悔することなどまずないし、途中で放り出す心配もない。実は「震度0」もとっくに読んだ本と思いながら、図書館から借りてきた。どういうわけか、まだ読んでいなかった、と途中で気付く。
公開中の映画「クライマーズ・ハイ」の原作も、地方新聞社内の人間模様がしばしばニンマリしてしまうほど見事に描かれており感服したものだが(映画でも俳優たちが実にそれらしく演じているのに驚嘆する)、横山氏の真骨頂はやはり警察小説ではないだろうか。横山氏は、上毛新聞社の元記者だから、警察官の描き方が実にリアリティに富んでいる。抜かれっぱなしの記者だったとしても、編集者も都内警察回り、地方の警察本部詰め記者の経験を持つ。いつも小説の細部の描写に、舌を巻きつつ最後まで読まされてしまうというわけだ。
「本部長公舎」から「警務部長公舎」、「刑事部長公舎」と順に場面を章立てして、おもな登場人物を紹介していく筋の運びも、小説に詳しくない編集者にとっては興味深い。すぐモデルになった県は、あまり大きくない県であることが分かる。県警本部のナンバー2である警務部長がえらく若いキャリアであることと、この警務部長以外の部長は、警備部長1人が準キャリアと呼ばれる1ランク格上である以外、すべて地元のたたき上げという設定だからだ。警備部長以下の部長たちは、本部長にも警務部長にも絶対になれない。
細部があまりに達者なため、残りページ数が少なくなるにつれ、どう驚かす結末にするのか気になった。やはり、途中の面白さに比べると、いまひとつという感じが否めない。焦点である“失踪”した警務課長自身がいかなる人物だったかが、十分には書き込まれていないからだろうか。意識的になのか、筋の展開上やむなくそうなったのか、よく分からないが…。読み終わった後しばし考えた。
松本清張を引き合いに横山氏を評価した記事を読んだことがある。両者を比較した場合、横山氏には時代的なハンデがあるように思った。太平洋戦争が終わった直後という日本社会の激変時を推理小説の舞台にできた清張と、今の時代に足を置かざるをえない横山氏とでは、登場人物の設定ひとつとっても苦労ははるかに大きいのではと想像するからだ。表面的にはどんどん均一化、平準化が進む日本社会の中では、犯罪の動機についていろいろ知恵を絞っても、どんどん“内向き”にならざるを得ないのでは、という気がしてならない。前夜は、北京オリンピックの開会式だった。チャン・イーモア監督演出の開会式がつまらないわけはないとは思うものの、長時間つきあうのも苦だし、早々と寝てしまった。しかし、開会式を迎えるまでに、チベットや新疆ウイグル自治区で起きた激烈な出来事を考えると、日本の現状との違いにどうしても思いが至ってしまう。