レビュー

編集だよりー 2008年7月15日編集だより

2008.07.15

小岩井忠道

 旧知の通産省・科学技術庁OB、宮本二郎氏から早速興味深い資料が届いた。9日に行われた井上春成賞の授賞式会場で久しぶりに会い、いまや日本の競争的研究資金制度として確たる地位を占めているERATO誕生時のさまざまな苦労話を聞いたばかりだ。その際、資料を送るという約束をいただいた。

 宮本氏に対しては科学技術庁原子力安全局次長として、新しく導入された原子力発電所の公開ヒアリングで力をふるったという印象が強かった。しかし、新しい競争的研究資金制度を日本に根付かすのにも大きな役割を果たしていたということだ。

 実は、だいぶ前になるが科学技術庁の機関誌「プロメテウス」に氏のインタビュー記事が載ったことがある。元・科学技術庁振興局長として登場し、ERATO発足時の「創造科学技術推進制度」がいかにして誕生し得たか、ということを語っていた。編集者はすでに科学技術庁詰めの記者ではなかったが、それを読んでため息をついたことを思い出す。担当の記者として、肝心なことをまるで知らなかったことに気づいたからだ。

 「プロメテウス」に載っていた記事は1ページか2ページだった。今回、送っていただいた資料は、一昨年10月、政策研究大学院大学教授ら3人のインタビューに答えた内容をまとめてある。A4判裏表20数ページにもなるから情報量はまるで違う。政策研究大学院大学が昨年夏、刊行した調査研究報告「わが国の科学技術行政に関する歴史的考察」に収められている。

 当時の印象は、科学技術庁振興局の長柄喜一郎・振興課長と新技術開発事業団(現・科学技術振興機構)の千葉玄弥・企画室長が一生懸命動いていたものの、当初は科学技術庁内でもまともな反応はなかったというものだ。そもそも振興局振興課自体が科学技術庁詰めの記者で取材に行く者などほとんどいそうもない存在だったし、新技術開発事業団となると専門紙以外、まず取材対象と考えていなかったような組織だった。

 新制度は、中川一郎・科学技術庁長官と渡辺美智雄・大蔵相の大臣折衝の結果、芽を出す。ただこの決着も一言で表現しにくいものだったことをよく覚えている。宮本氏からいただいた資料では「特別研究促進調整費を廃止して科学技術会議の意見に従って配分する科学技術振興調整費を創設することとし、その予算として33億5000万円を認めること、『創造科学』については科学技術会議の同意を条件として5億円をその中から配分すること、ただし、科学技術会議の意見によっては増額してもよい、というものであった」となっている。

 事情を知らない人は、さっぱり理解できないのではないだろうか。「やはりなあ」、と宮本氏の資料で感じたものだ。氏は次のように言っている。「上記のような形で突然内示された科学技術振興調整費の創設については、誰がこのような予算を要求していたのか、下邨(昭三)官房長も全く知らなかったし、(大沢弘之)次官も同様であった。科学技術庁の内部は誰も知らなかったようだ。要求もしていない予算が突然付いてきたのであった」

 宮本氏が振興局長として果たした役割というのは、当時、アイデアとしては画期的ではあるが、予算要求するには多々、問題点があった「新制度」(案)にとにかく庁内の同意を取り付け、他省庁の反対を封じ、さらに経団連など応援団体から積極的な支援を得るという手順を踏み、予算要求にこぎ着けたことだった。

 実は、こうした事実も当時、編集者はきちんとつかんでいなかったのだが、妙な形で予算が付いてからもさらに相当な苦労があった、と今回よく分かった。簡単には紹介できないので、今回は、前段の苦労の紹介だけでとどめておく。

 科学技術庁の誰もが知らない「科学技術振興調整費」という形で予算が付いた理由について宮本氏は、次のように言っている。「大蔵省としては、妥当な使途を担保するためにそれまでの特別研究促進調整費を衣替えして、科学技術会議の意見に従って使用する科学技術振興調整費を創設したということのようだ」

 しかし、だれかの働きかけがないと大蔵省もそのような判断はできなかったのではないか。

 これについての宮本氏の見方は「科学技術振興調整費を実現するために裏で動いていたのは当時の中川大臣の側近だったようだ。大臣の裁量で幅広く使える予算を獲得すべく大蔵省に働きかけていたらしい」というものである。

 名前は記されていないが、そんな力を持っていた中川一郎氏の側近といえば、誰でもすぐ頭に浮かぶ人物ということだろう。だとするとその人も、今や海外からも注目される競争的研究資金制度「ERATO」産みの親の一人ということになる。

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