レビュー

編集だよりー 2008年7月2日編集だより

2008.07.02

小岩井忠道

 いくら金を積まれてもできない。生放送番組のキャスターやコメンテーターは、編集者にとってすぐ思いつくそんな職業のひとつだ。もっとも頼まれることもないだろうから、いらぬ心配だが。

 いつものように朝のラジオ生番組を聴いていたら、この日の産経新聞朝刊の記事をキャスターが紹介していた。洞爺湖サミットの期間中に予定されている首脳配偶者プログラムで、皆と一緒のバス移動に難色を示している夫人が一人いるという。「ドイツのメルケル首相の夫人は…」。キャスターの言葉にアレレと思ったら、あわてたスタッフあたりからメモでも入ったのだろうか。ちょっとたってから「メルケル首相は女性で、夫は物理学者…」という修正の言葉が流れた。ドイツの首相が女性であることを忘れてしまったらしい。魔が差したのだろう。

 特定の局、キャスターをどうこう言う意図は全くないので公平のため、ちょっと前になるが別のラジオ局の例を挙げる。レギュラー出演者が、野口英世について語っていた。「こうねつ病」という言葉を連発する。「ひょっとして『黄熱病』は正式には『こう熱病』と読むのか」と、不安になったものだ。

 思い込みというのは、程度の差こそあれ、だれにでもあるものだとあらためて感じる。編集者の例でいうと、われながら“傑作”と折に触れて思い出す誤りがある。「場末」を「じょうまつ」と読むものとばかり長い間思っていたのだ。「ばすえ」という言葉があることもある時期から知っていたのだが、20歳すぎになるまで、「場末」と「ばすえ」が同一語だと結びつかなかった。

 最近では、有名な女優「富司純子(ふじすみこ)」を、友人に教えられるまでずっと「とみつかさじゅんこ」と思い込んでいた例もある。

 どちらも他人に迷惑まで及ぼしたわけではない、と自分を笑えばすむが、その点、生放送に出ているキャスターや評論家というのは大変だ。一度、しゃべってしまうと膨大な数の人の耳に入ってしまう。間違いに気づくと鬼の首を取ったように喜び勇んで(口調は怒って)局に電話をかけてくる人たちも多いというから、気が小さい人などは相当こたえるだろう。

 無論、文字で食べている新聞社や通信社記者なども字を間違うと後始末は大変だ。音声は録音しない限り、消えてしまうが、印刷してしまった新聞はいつまでも残ってしまう。誤字脱字を防ぐためにいかに多くのエネルギーを費やしているかは、部外者の想像を超えると思われる。

 新聞社や通信社の場合、記者の書いた記事をまずデスクとよばれる部次長クラスがチェック、それを整理部門の部長ないし部次長以下のクラスが再度チェックし、さらに校閲部員がチェックする。通信社なら記事が流れた後で記事内容を編集局のその日の当番責任者があらためて目を通し、新聞社なら同じ作業をしかるべき人間がゲラ(試し刷り)でチェックするという多重防護が確立しているはずだ。これらはほぼ百パーセント正規社員がかかわっているから、一つひとつの記事が紙面に載るまでに要するコストは人件費だけでも相当なものといえる。

 この日の毎日新聞夕刊トップに、にわかに信じがたいような記事が載っていた。国内のインターネット利用者の2割もの人が、ブログを利用しているという。利用というのはブログを開設しているという意味のようだから、実に約1,690万人もの日本人が個人的主張を発信する自前の公開サイトを持っているということだ。いつからこれほど多くの日本人が文章を書くことを苦にしなくなったのだろうか。

 ウェブの仕事にかかわるようになってつくづく感じるのは、ウェブというのは「上書きの文化」ではないかということである。とんでもない間違いに対するリアクションは、新聞、書籍と変わりないのだろうとは思う。しかし、文章というのは何も完ぺきなものでなくてもよい。極端なことを言えば、間違いは気づいた時点で速やかに直せばよい、という。

 こんな発想は、オールドメディアに長くいた人間からは到底、生まれなかったのでは、と思う。良い悪いの話ではなく、メディアの世界が大きく変わってきたということだろう。

 朝のラジオ生番組が、相当多くのネタをその日の新聞各紙朝刊から得ているのは、はっきりしている。放送メデイアが先行のメディアである新聞の記事というのがどのようにして紙面に現れるかについて理解し、その結果として書かれていることに相当の信頼を置いているから成りたつ話だ。

 最も新しいメディアといえるウェブを利用している人たちは、新聞や放送といった先行メディアが伝える情報にどれほどの関心を持っているのだろうか。

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