24日の土曜日、昨年、創立100周年を迎えた財団法人水戸育英会の評議員会に出た。評議員が何人か理事に昇格し、その後任の評議員に新任された。事前に郡司勝美・理事長から電話があったので、当然「分不相応」と断ったが、「先輩の言うことは聞くものだ」の一言であっさり了承させられてしまったという次第である。
評議員会がほとんど終わるころになって始まった徳川斉正総裁の話が面白い。大学を出てからずっと企業勤めだが、水戸徳川宗家の第15代当主である。水戸育英会は、斉正総裁の祖父で13代当主、圀順氏(日本赤十字社社長、貴族院議長などを務める)が私財を投じて設立した寄宿舎からはじまった。以来、水戸徳川家代々の当主が総裁だ。斉正総裁はこのほか、財団法人水府明徳会の会長・理事も務めている。
水府明徳会は、水戸徳川家伝来の什宝、光圀が始めた大日本史編纂作業で集められた膨大な史料、さらに光圀が隠居した史跡、西山(せいざん)荘などを保管している。
什宝、史料類を展示、公開している徳川博物館と西山荘が主要な施設だが、ご多分にもれず入館・入場者の減少という悩みを抱えているということだった。水戸の偕楽園からそれほど遠くない徳川博物館に比べ、常陸太田にある西山荘の客の落ち込みが激しいという。テレビの水戸黄門シリーズは根強い人気を保っているというものの、黄門様と聞いて「ハハー」という世代がどんどん高齢になり、その結果、西山荘まで足を伸ばしてくれる人の数も急激に減ってきているということのようだ。確かに「水戸黄門」と聞いて、すぐ月形龍之介演じる黄門が思い浮かぶ東映時代劇世代も、編集者くらいまでだろうか。このままいくと、西山荘の閉鎖を考えざるを得なくなるかも、ということだから、何とも寂しい。
公益法人をめぐる動きが、活発化していることも総裁の話からあらためてよく分かった。
運営は硝子張りでなければならない、という要請が急に強まり、法人側の負担は相当増えたという。「評議員会なども委任状が多いときちんと機能していないとみなされる」と脅かされた。名前だけ立派な人を集めても欠席ばかりでは、監督官庁が黙っていないということらしい。しかし、その結果、最小限のスタッフと費用で何とか運営しているまじめな公益法人が次々にたち行かなくなるということでは、公益法人見直しの目的にあうだろうか。
徳川博物館の料金や、最近の入館者の様子などの話の途中「この中でまだ徳川博物館を見たことない人いますか」と突然いわれ、手を挙げて青くなった。編集者1人だけだったからだ。薄情な性格をはしなくも露呈してしまったという思いである。西山荘は何度か行っているのだが…。
評議員会、その後の塾友会総会に続いて開かれたパーティーで、かねてから気になっていたことを郡司理事長に尋ねてみた。大学入学時、水戸育英会寄宿舎(「水戸塾」の名で通っていた)に入る際、徳川家の当主夫人に推薦状を書いてもらったことを覚えている。今と違い裕福な家庭など一握りという時代だ。安い寮費で毎日2食つき、大きな風呂もあって、テニスコートに武道場、麻雀部屋まである寄宿舎の人気は高かった。倍率も相当高い。顔が広いことを自他ともに認める親類のおじ(母の従兄弟にあたる)が「徳川夫人」の紹介状をもらってくれた。
もと武家の姫君なのに、水戸近郊の開拓地で牛の世話をしている、とそのおじからよく聞かされたものだ。
「ああ、それは一橋家だよ」。郡司理事長に言われ、きょとんとしてしまった。第15代将軍、慶喜が水戸徳川家から一橋家に養子に入り、その後、将軍になったことはさすがに知っている。しかし、なぜ一橋徳川家の夫人が水戸に? その方が「徳川幹(もと)子」という名前であることを郡司理事長に確かめ、後は、インターネットで調べることにした。その日は、パーティーのあと、一緒に評議員に“抜擢”された同期入塾の軍司育雄(元日弁連副会長)、一期下の山野隆夫(水城高校校長)の両氏と都心で遅くまで飲んでしまったから、手を付けられなかったが…。
徳川幹子さんが、大変な有名人であることはすぐに分かった。牛の世話に明け暮れていたというのが、JR赤塚駅から4キロ離れた丹下一の牧という場所と知り、地図で調べたら編集者の父の実家から1.5キロくらいしか離れていない。元々、水戸徳川宗家の圀順氏(前述のように水戸育英会前身の寄宿舎の創設者で、現総裁、斉正氏の祖父)が、いずれ農地解放にかかるだろうと農林省に売り渡した軍馬養成の牧場後だったという。農林省がそれを開拓希望者に払い下げ、一橋徳川家も3町歩あまりの土地を譲り受けた、ということだ。一橋徳川家の当主、宗敬氏は貴族院副議長や参議院議員、さらには伊勢神宮の大宮司まで勤めたそうだから水戸郊外で牛の世話をするような暇などなかっただろう。「一橋家も水戸で人気があった」(郡司理事長)というのは、もっぱら幹子夫人の活動、人柄によるだろうと推測できる。紹介状をもらってくれた親類のおじもそういえばすっかり心酔していた。
ところで、徳川幹子さんは徳川慶喜の孫だ。夫の宗敬氏は水戸徳川宗家の13代当主、圀順氏の弟で、一橋徳川家の養子になり、徳川(一橋)慶喜の孫である幹子さんと結婚する。一方、宗敬氏の実兄、水戸徳川宗家の13代当主、圀順氏の母は慶喜の11女、英子という人だから、圀順氏もまた慶喜の孫である。宗敬氏を養子に迎え入れた一橋家の当主、徳川達道夫人の鉄子という人はこれまた慶喜の子どもで…。
この辺の入り組んだ関係は、自分で系図を書いてみないと途中で混乱してしまう。今日までかかり、ようやくこの程度までは理解できたということだ。