レビュー

編集だよりー 2008年4月20日編集だより

2008.04.20

小岩井忠道

 ジャン・ルノワール監督の作品を特集している東京国立近代美術館フィルムセンターで「どん底」を観た。

 米国のエジソンが映写機を発明、一般公開したのは1893年。フランスのリュミエール兄弟がカメラ、映写機、プリンターからなる今の映画の原型となる基本システムを開発し、パリで開催された科学振興会で公開したのが1895年。これらのいずれかをもって映画が生まれた年とするようだ。有名な印象派の画家ルノワールの二男としてジャンが生まれたのは、これら映画誕生の年に挟まれた1894年である。映画とともに生まれ、成人になった時には映画史に残る大監督に、ということだ。映画というイノベーションが普及した速さに驚く。社会に与えたインパクトは、相当なものだっただろう。

 テレビと比較するとどうだろうか。映画は、ラジオとともにホットなメディアであり、これに対し同じ動画でもテレビは、電話と同じクールなメディア。有名な文明批評家が言ったそうだが、人間に与える影響力というのは、確かに映画の方がテレビより激しいものがあるのかもしれない。

 ルノワール監督が「どん底」を撮ったのは1936年という。日本では2.26事件が起きた年だ。同じゴーリキーの原作をもとに黒澤明監督も「どん底」を撮っており、こちらは1957年の作品だ。舞台を江戸時代に置き換えている。

 黒澤監督の作品は、だいぶ前にビデオで一度見ただけで記憶も薄れているが、山田五十鈴が障子の破れ目だったかから、ものすごい表情で部屋の中をにらんでいたシーンが忘れられない。ルノワール作品の同役の女優よりはるかに印象は強烈だ。主役のジャン・ギャバンと三船敏郎はどちらに軍配を上げるか、人それぞれだろう。しかし、ばくちで全財産を失い貧民宿に転がり込んでくる男爵(黒澤作品では御家人くずれ)の役は、ルノワール作品の方が上ではないだろうか。ルイ・ジューヴェがなんともそれらしくて、感心する。

 1週間前に同じ会場で「大いなる幻影」を観ている。ルノワール監督については名前だけしか知らなかったため、この名作も初めてだった。こちらは1937年の作というから「どん底」の1年後である。後年つくられた捕虜あるいは囚人の脱走劇映画というのはたくさんあると思うが、編集者が思い浮かぶいくつかの作品に比べ、全く見劣りしないように感じられたのが不思議だ。「大脱走」(1963年、ジョン・スタージェス監督)も、サッカーの元スーパースター、ペレの出演で話題になった「勝利への脱出」(1981年、ジョン・ヒューストン監督)も、それぞれ見どころたっぷり、サービス精神満載の作品だったが、20年以上あるいは40年以上前につくられたルノワール作品よりどれだけ優れているものか。映画に詳しい人々なら、ルノワール作品のよさをいくつもあげるのではないかという気がする。

 「どん底」と「大いなる幻影」を観てもう一つ不思議だったことがある。観た後、作品の長さをパンフレットで確かめたところ、いずれも思ったほど長くなかったことだ。無論、退屈だから長く感じたということではない。「大いなる幻影」は、上映時間113分と2時間を切っており、「どん底」は82分である。

 作品の基盤であるシナリオから無駄も無理もない、ということだろう。

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