レビュー

編集だよりー 2008年3月29日編集だより

2008.03.29

小岩井忠道

 毎年、この時期、高校の同窓生たちと花見をする。当初は、二松学舎の校舎屋上に上げてもらい千鳥ヶ淵公園のサクラを見下ろすという趣向だった。二松学舎の学長、理事長を務めた大先輩がいるからだ。サクラ見物は早々に終え、近くのおでん屋に移動、一杯となるわけだが、幹事によると店の主人が驚いていたという。相当な年配の人間も多いのに飲む酒の量が、普通の客の比ではないというのだ。毎回、酒代がかさむからだろうか、数年前から場所が隅田公園に変わった。幹事は大変だが、参加者に弁当を持参してもらい、酒と少々のつまみを付近の店で調達すれば確かにほとんどお金はかからない。

 隅田川右岸、言問橋西詰に近い隅田公園の中に小高くなった場所がある。そこが昨年から花見の場となった。左岸の旧本所小梅町(現・墨田区向島)の旧水戸藩主邸跡まで足を伸ばしたこともあったのだが、最初の年だけだった。2回目から集合、即宴会というスタイルと化す。ことしは幹事が昨年より早く着いて場所を確保したせいか、川縁寄りで満開のサクラの木の真下という絶好の場所だった。

 予定時刻に十分間に合うように出かけたのに、集まりが悪い。そのうち老若の一団が到着した。ことしは、希望者を募り、日の出桟橋から浅草まで水上バスで両岸の景色を眺めるという新趣向を取り入れた、と初めて知る。メールを最後まできちんと読まない悪い癖のため、せっかくの幹事の心遣いに気づかなかったというわけだ。

 広げたシートに30人ほどが何とか座り、幹事のあいさつもそこそこに酒盛りが始まった。

 思えば、このあたりも昔とは大変な様変わりである。東京オリンピックの2年前だからもう40数年になる。高校2年の時、この日、座った場所のすぐ北側にあったと思われる台東体育館にバスケットボールの関東大学リーグ戦を見に茨城から出てきたことを思い出す。上野から地下鉄に乗り換え、浅草についたとたん異様なにおいで胸が悪くなった。当時の隅田川は、まさにどぶ同様で、不快なにおいが浅草一帯にただよっていたのである。皆、「公害」だから、しようがないとあきらめていたのだろう。よく、この悪臭の中で料亭やすし屋などが店を続けられたものだ、と思う。

 もっとも銀座から土橋の方に流れていた川の上には住宅兼飲食店が並んでおり、汚物は川に垂れ流しだった、などという小説を読んだ気がするので、隅田川周辺だけに限らない戦後しばらくの東京の姿だったということだろうか。

 飲み足りない人間、数人で2次会、3次会と場所を移動し、すっかり酔いの回った状態で帰宅したら、手紙が来ていた。1月前に同級生だけの同窓会で、高校卒業以来初めて会った同級生からだった。

 「老後を楽しく暮らすには、金持ちより人持ち。これからも参加したいからよろしく」とあった。定年退職したり、あるいは子どもたちが独立してしまったりすると、人間は皆同じような心境になるのだろうか。

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