春分の日の20日、自然科学研究機構主催のシンポジウムが開かれた。会場の東京国際フォーラムホールは、事前に申し込んだ500人の出席者で満員だった。自然科学研究機構は、大学共同利用機関の岡崎共同利用施設(基礎生物学研究所など3研究所)と国立天文台、核融合科学研究所という5つの研究所から成る組織だ。
2年前から、春分の日、秋分の日にシンポジウムを開催しており、今回が5回目。毎回、満員で、途中から帰ってしまう傍聴者がほとんどいない数少ないシンポジウムとなっている。今回は、生理学研究所の研究成果を中心に「解き明かされる脳の不思議−脳科学の未来」というテーマで開かれた。
人気が高いのはなぜか。自然科学研究機構を構成する研究所の研究レベルが非常に高いのが、まず理由に挙げられるだろうが、第1回目から、機構の経営協議会委員でもあるジャーナリストの立花隆氏が、プログラムコーディネーターとしてシンポジウムの運営責任を負っていることがより大きな理由と思われる。当日の司会・進行役だけでなく、シンポジウムのテーマ、講演者の選定にもかかわるというから、気合いの入れ方は半端ではない。機構の主たる研究分野で、これまでシンポジウムのテーマにもなってきた宇宙、生命科学、脳科学といった領域が、立花氏自身の興味、実際の仕事の対象とピッタリ重なってもいるのも大きいと思われる。一部専門家しか分からないような難解あるいは退屈な講演が並ぶわけはないということだろう。
さらに脱帽するのは、氏が特任教授を務める東京大学ゼミの学生たちと氏自身が、事前に各講演者のリハーサルに立ち会う念の入れ方だ。各30分の講演内容を専門家以外の人が聞いても分かるようにさらに練り直してもらう、という。
講演以外に時間をできるだけ割きたくないという理由から、会場からの質問は質問用紙だけで受け、当日ではなく、後日、講演者にメールで回答してもらう。その代わり、立花氏自身が、各講演の後、コメントないし質問をする、というスタイルも定着している。講演者が自ら言いにくい業績を端的に紹介するなど、聴衆にとってはありがたいコメントが多い。
さて、多くのシンポジウムがこのようには行かないのはなぜか。
まず、基調講演があって、何人かの具体的な報告が続き、後半にパネルディススカッションがあるというのがシンポジウムの一つの典型である。
基調講演というのは、多くのシンポジウムに本当に必要なのだろうか。客寄せのために、という狙いがあるとしても、多くの参加者を満足させるような講演ができる人など限られているのでは。基調講演に1時間前後の時間などとらず、すぐに個別報告に入った方がよい場合もあるのでは。自然科学研究機構のように科学の先端テーマをかかげるようなシンポジウムだけでなく、例えば、社会的な対応が急がれている気候変動に関するシンポジウムなど、最初から具体論に入り、報告者同士ががんがんやりあう方が…。そう考える人もいるのではないだろうか。
また、パネルディスカッションというのも、これほど判を押したように欠かせないものだろうか。司会者によほどの人でもあてない限り、実のある内容になるのは難しいのでは。パネリストの報告、発言がさっぱり交差しないうちに時間が来てしまう、というケースが相当あるのではないだろうか。
格差拡大はシンポジウムの世界でも深刻に、などとならないうちに主催者側は考えた方がよい、と思う人はいないだろうか。