日本橋から歩き始めて中山道を歩く会は、8日、宮ノ越宿から歩行を再開、目指す京都・三条大橋までの中間点を過ぎた。朝、特急「あずさ」で新宿を発つとき都心から富士山がくっきりと見えたが、こちらも快晴。申し訳ないような気分になる。たまにしか来ないのに、こんなきれいな山並みを眺められるなんて、と。
その晩は仲間と適度に飲んで就寝。2日目もまた前日同様、好天気のぜいたくな旅となった。福島宿から上松宿まで、左手に木曽駒ヶ岳、右手に御嶽山のそれぞれ雪をかぶった雄姿を折々眺めながらの。歩き始めこそ、冷気のため何年ぶりだろうかという耳の痛さが気になったが、文句を言っては罰があたる。
木曽路もこの辺りが、一番の難所のようだ。角の取れた大小の岩がごろごろ河床にひしめく場所が、有名な桟(かけはし)だった。木曽川の両岸に急峻ながけが迫り、昔の旅人の苦労がしのばれる。川べりにそそり立つがけを削ってまともな道をつくることができず、当初はがけの岩の間に丸太を押し込み、板を張って藤づるなどでゆわえただけという通路を命がけで通り抜けたらしい。対岸に「桟や いのちをからむ 蔦かづら」というこれもまた有名らしい芭蕉の句碑があった。
実は、桟についての予備知識なしに出かけたので、説明文を読んで驚く。昔の工事現場で見かけたような木で組み上げた通路だから、1647年に、旅人の松明(たいまつ)の火で焼け落ちてしまったことがあるという。その直後に、尾張藩が、高さ十数メートル、長さ100メートルにも及ぶ石垣を積み上げた橋に造り直したという。現在は、この橋の上に国道19号線が造られているので、当時を想像するのは難しいが、石垣の一部が国道の基礎部分に保存され、対岸から城壁を思わせる石垣を眺めることができる。これだけ見ても相当な工事だった、ということだけは分かる。尾張藩はどのくらいの経済的負担を強いられたのだろうか、考えてしまった。
木曽ヒノキの集積地として木曽十一宿の中でも最もにぎわったという上松宿に到着し、この日の行程を終える。JR上松駅から塩尻駅で「あずさ」に乗り換えて帰京、自宅に着いて上松で買った木曽福島の銘酒「七笑」を飲みながら新聞に目を通す。毎日新聞の書評欄に載っていた「地域主権型道州制−日本の新しい『国のかたち』」(江口克彦著、PHP新書)に対する森谷正規氏の評が目にとまった。
「日本を元気にする脱中央集権の提案」という見出しがついている。著者の江口氏は現在の日本の「中央集権体制とそれを支える官僚を痛烈に批判…。地域主権型道州制を提唱して、これこそが、鬱屈している日本の全国を元気にする」という主張の持ち主、と書いてあった。
著書の中で、この「地域主権型道州制」は次のように説かれているそうだ。
「十二の道州と全国で三百の基礎自治体を設ける。基礎自治体にも、住民の生活に直結する多くの権限を委譲する。したがって、行政が身近なところに来るのであり、国民は政治のありように強い関心を持つようになるはずだ」
あの桟を石垣の立派な橋に造り替えるにあたって、徳川幕府と尾張藩との間ではどんなやりとりがあったものだろうか。幕府はなにがしかの補助はしたのだろうか。金は一銭も出さずに工事の命令だけ発したのだろうか。それとも幕府の意向とは関係なく、尾張藩が、面子と社会的使命感に基づき独力で造ったのだろうか。
もう少し日本の歴史の勉強もしておくべきだった、と反省して寝た。