編集者がずっと勤めていた通信社の後輩、角田光男氏から、著書が送られてきた。「メディア つれづれ帖」というタイトルだ。定年退職して1カ月ちょっとというのに素早い。そう思ったが、あとがきを読んでなるほどと合点した。「組織から距離を置いて生きていくためには、多くの人に自分を知ってもらう、何か形のあるものが必要だと思いました」とある。「退社した後は、ふるさとである東京の下町のためになることをする」。昨年暮れ、親しい元の職場の仲間たちで開いた退職慰労会の席で聞いていたが、こういうところから始めるというのは、きまじめな角田氏らしい、とあらためて感心する。
黒澤明監督のデビュー作「姿三四郎」のような人物である。仕事上のお客をはじめ自分の属する組織外の人を大事にし、むしろ組織外で人気が高い人。組織内の人間関係にもっぱらエネルギーをそそぎ、組織を一歩出ると恐ろしく知名度の低い人。どんな組織にも2種類のタイプがいると思うが、氏は組織の内外どちらからも好かれ、信頼される人間だった。
好き嫌いが激しい狭量な編集者などとはまるで違う人格者だが、氏とは、いろいろな接点、共通点、共有体験がある。双方とも育った家庭が裕福とは言えない。同じ理工系大学を出て記者になった。お互いいい年になってから一緒に同じ職場でニュース映像配信サービス、インターネットによるニュース配信を立ち上げた。率先垂範の現場監督役が氏で、編集者はわきから口を出していただけだったが。
ニュース映像サービスもインターネットサービスも、それまで通信社の業務にはなかった。某テレビ局から頼まれて芸能素材を取材、テープで送り届けるという細々とした映像業務があっただけだった。「通信社も多メディア時代に対応して、ニュース映像、インターネット配信に手を付けなければならない」。社内で提案、自ら映像配信回線を確保するなどの道筋を付けた意欲的な役員のシナリオに沿って、わけもわからず動き回ったものだった。
「メディア つれづれ帖」は、氏が過去に社内の定期刊行物に書いた文章が多数含まれている。「そういえばこんなこともあったなあ」という話もあれば、すっかり忘れていた事柄も出てくる。通信社というのは、新聞社以上に活字メディアの性格が強い。映像やインターネット配信などまるで想定外の人間が大半だった。社内の啓蒙がまずは大変だったことを思い出す。経理局長に何度も頭を下げて記者に持たせる小型デジタルビデオカメラを地方支社局に配備してほしいと頼む。若い記者なら事件事故の際、ビデオカメラを持って映像も撮ってくれるのでは、という期待からだ。「年度末に予算があまったら考える」という対応で、最初の年度末に購入が許されたのは6、7台だったと思う。全支社局に1台ずつ配備するまでに3年くらいかかった。これと並行しての難題は、放送局に映像を受信してもらうことだった。NHK、キー局というわが方から見れば巨像のような組織に、ほとんど実績のない通信社が、頼まれもしない映像配信を受けてほしいと頼むのである。
角田氏の著書には出てこないが、2人でNHKの映像センター長を訪ねたことがあった。
「まあ、NHKにも視聴者提供ということで映像を使うことがありますから」。センター長に言われ、次なる言葉に窮したことを思い出す。
著書の「はじめに」の中に「エンジニアではなく、記者になって社会のさまざまな問題にかかわろうと」通信社に入った経緯が紹介されている。そこに次のような記述があった。時は学生紛争が日本だけでなく世界中で起きていたころだ。
「キャンパスの立て看板にあった『技術なき思想は無力であり、思想なき技術は危険である』という言葉が胸に響いた」