社会人になって1年目、毎日、池袋警察署の記者クラブで仕事をした。勤務時間は朝の10時から夜の10時までだから、本給より超過勤務手当の方が多かった。給料をもらいに行く日を含め、月に数えるほどしか会社には顔を出さない。当然、同じ記者クラブに詰めている他社の記者(当然、先輩ばかり)と、先に親しくなる。その中には現在、社長になっている人もいる。
そうした他社の先輩記者の中に運動部から社会部に移った剛毅な方がいた。自宅に呼ばれてごちそうになるなど大変お世話になったものだが、ある時、こんな話になった。
「長嶋選手が、ボールを打つ瞬間、目はどこを向いていると思うか」
この種の問いに対して「そりゃあ、ボールに決まっているでしょう」と答えたら、大学入試問題などと同じで大体ははずれである。とはいっても、答えは思いつかない。
「写真を見れば一目瞭然だが、投手の方を向いているんだよ」というのが正解だった。
前日、近くに住む娘から小学2年生になる孫が初めて野球の練習試合に出るという電話があったので、地下鉄で2駅のところにある小学校のグランドまで出かけた。同じ小学校に通う児童が中心になったチームが、周辺地域のあちこちにあるらしい。下級生は球拾いだけ、などというのは昔の話のようだ。上級生のチームとは別に1、2年生だけのチームもあり、近々、春のリーグ戦も始まるという。2年生は数えるほどしかいないため、孫はキャッチャーで3番、もう1人の2年生が投手で4番というチームである。
編集者の幼少時代、野球は身近にあった。小学生のころは、毎日暗くなるまで近くの広場でボールを追いかけていたものだが、軟式野球はそうそうできなかった。グローブは何とかそろっても、キャッチャーが付けるマスクやプロテクターを持っている子供などいないので、特別の場合を除いてもっぱらソフトボールである。だからゴロやフライを捕るのは多分今でも苦にしないだろうが、キャッチャーだけは、とてもやる気がしない。
ところがである。1、2年生同士の試合というのに一応、様になっているのに驚いた。四球が多く、かつ塁に出ると盗塁はし放題。これは大人の草野球でもよくある光景だから当然として、双方とも三振や内野ゴロでちゃんとアウトもとるから感心する。孫の捕球動作を見て、ホーッと思ったものだ。ミットを持った左手を伸ばし、右手は尻の後ろに添えている。おそらく突き指を避けるため、そう教えられているのだろう。両手でミットを構えるのとどちらが基本に沿った受け方か知らないが。
犬やサルに芸を仕込むのも相当根気が要ることだろうと想像するが、1、2年生の子供を短期間でとにかく軟式野球の試合ができるようになるまで教え込んだコーチのお父さん方には頭が下がる思いだった。
さて、長嶋選手のフォームの話に戻る。あれは不思議でも何でもないのではないだろうか。打つ瞬間までボールをジッと見ているようでは逆に打てるわけがないのでは。現在、インタビュー記事を連載中の伊藤正男・理化学研究所脳科学総合研究センター特別顧問の話を思い出し、そう思いついた。長嶋選手に限らずプロの好打者の意識(視覚)にあるのは、ボールが投手の手を離れてあるところに来るまで。それからボールをたたくまでは無意識のうちに体が動いている、というのが実態なのではないだろうか、と。