レビュー

編集だよりー 2008年1月29日編集だより

2008.01.29

小岩井忠道

 記者という仕事のありようもウェブ社会の到来とともに急激に変化しつつあるように見える。

 若い記者にとって最初のやっかいな壁は警察だったように思う。実は編集者が社会人になりたてのころ、マスメディア“先進国”の米国では、既に警察担当記者の地位低下が始まっていたらしい。新聞紙面で事件ものの扱いがどんどん小さくなり、警察担当記者の志気も下がっている、という話を何かで読んだ記憶がある。クリント・イーストウッド演じる「ダーティハリー」シリースが大勢の観客を集め、推理小説の世界でも警察官や警察署を主人公や舞台にした作品が根強い人気を保っていたにもかかわらずだ。

 「新聞の広告主が自社製品のさわやかさや美しさを売り込む広告のそばに、血なまぐさい事件を伝える記事が大きく載るのをいやがりだした」。そんな理由が挙げられていた。

 しかし、それはあくまで米国の話である。日本では、警視庁担当、東京地検担当などの記者こそ「社会部記者の本流」といった時代がその後もずっと続いたような気がする。「今日逮捕」あるいは「今日強制捜査」などという見出しがとれるニュースを求め、今でも新聞社や通信社は相当な労力と費用を投入しているはずだ。

 それでも警視庁担当、東京地検担当などは記者全体から見れば一部の人たちである。影響は限定的と言えないこともない。問題は大半の若い記者が、最初に地方都市の警察署や道府県の警察本部を担当させられることが、マスメディアに及ぼしてきた影響である。

 犯罪は社会の縮図。記者は目線を絶えず庶民のレベルに置かなければならない。まず警察を担当する意味は十分ある、といった説明がなされる。これが現在どの程度の説得力、合理性を持つかどうかはさておき、警察取材は日本のマスメディアのありようにどのような影響を与えてきたのだろうか。折に触れて、考えたものだ。

 警察取材というのは、独特の難しさがあり、最初からうまくこなせる人は限られているように思える。「それはあらゆる職業に通じること」。反論がすぐ返ってきそうだが、記者になりたての人間が警察官から有用な情報を聞き出すのは、並みの工夫、努力でどうにかなるようななまやさしいものではない、と今でも心底思う。

 人と会うのをあまり好まず、新聞、書籍さらにはパソコンを眺めている方が好き。どのマスメディアにも多分、そのような記者が一定の割合でいる、あるいは少なくともいたはずだ。若いときに警察取材の難しさに打ちのめされ、情報を生身の人間から得る努力を放棄してしまったのが一因ではないか、という気もする。無論、編集者のように特段、人間嫌いにも腰が重い記者にもならずに、漫然と記者稼業を続けた図々しい人間もいる。

 駆け出しの警察取材で失態ばかり演じていたにもかかわらず、なぜ、記者を続けられたか? 失態に比べたら数少ないとはいえこの職業の楽しみというものを感じる機会が何度もあったから、ということなのだろう。対面取材でこれぞと思える話を聞くことができた後の充実感である。足を動かさなくてもインターネットから短時間で膨大な知識を得られる時代にはなった。しかし、あの胸が膨らむような何とも言えない思いは、ウェブサイトからはまず得られない。疲労感だけは間違いなく得られても…。

 今週スタートしたインタビュー記事「社会の期待集める脳研究」に登場願った伊藤正男・理化学研究所脳科学総合研究センター特別顧問に初めてお会いしたのは、氏が東京大学医学部教授だった1982、3年ごろと思う。第五世代コンピュータ開発という国家プロジェクトが鳴り物入りで始まった時期である。どうして“人間に近い”コンピュータができるのか? 開発の中心を担うコンピュータや言語処理の専門家に聞いても、さっぱり分からない。脳神経学者として名高い伊藤氏なら、開発にかかわっていなくても本質的な何かを教えてもらえるのでは。そう思い立ち、期待通り貴重な話を伺うことができたことをよく覚えている。

 四半世紀ぶりのインタビューの後、再び、あの胸が膨らむような気分に浸ることができたのは幸せというほかない。

関連記事

ページトップへ