レビュー

編集だよりー 2008年1月4日編集だより

2008.01.04

小岩井忠道

 住まいの近くを目黒川が流れている。川に沿って下って行けば東京湾に出るだろうから、そこで初日の出でも拝もう。元旦の未明に思い立ち、テクテク歩いてみた。東京電力品川火力発電所で行く手を遮られたが、あきらめず倉庫類が並ぶ道路を北上すると10数人の人々が前方の路上にたむろしているのが見える。やはり、そこが日の出を眺めやすい場所だった。海面と道路の間に立ち並ぶ建物群の切れ目になっている。しばらく待っていたら、海面を挟んだ前方のお台場に立つ唯一の邪魔な建物の影から太陽が現れた。ちょうど建物の中心部、ゲートのようになっている空隙が見る見るうちに真っ赤になり、光が四方にあふれ出た。

 この数時間の散歩の後は、郷里に帰り、3日間、飲み通しである。3日の夕方に帰京し、帰宅前に岩波ホールで上映中の「サラエボの花」を観ることを思い立つ。昨年10月の東京国際女性映画祭でも上映されていたが、見損じていたのだ。

 あらすじは知っていたので、驚きは幾分、軽減されただろうが、衝撃的な内容である。ボスニア内戦で、収容所で敵側兵士に連日暴行されて妊娠、その上出産を強制された女性とその結果生まれた娘の話だ。内戦が始まったのは1992年で、8,000人のムスリム人が殺されたというスレブレニッツァの虐殺が起きたのは95年というから、わずか10年ちょっと前に端を発し、現在まさに進行中の話ということになる。

 男たちを虐殺し、女性には暴行しただけで許さず、自分たちの血を半分受け継いだ子供を無理矢理産ませる。人間というのは、いまだに状況次第で恐ろしいことをしてしまうものだ、とあらためて考え込む。この作品はベルリン映画祭の最高賞である「金熊賞」を受賞したということだが、ジュバニッチという女性監督はまだ32歳だという。内戦が勃発したときは17歳くらいということだ。「サラエボの花」の公式サイトを見ると、インタビューに答え、次のように語っている。

 「当時ティーンエイジャーだった私の一番の興味はセックスでした。愛の最高の形がセックスだと信じていました」。しかし、92年の戦争勃発で変わる。「セックスは戦争戦略の一つとして、そして女性に屈辱を与える手段の一つとして利用されました。ボスニア戦争中、2万人の女性がレイプされたのです。当時その地域の100メートル隔てたところに住んでいた私は戦争よりもそのことに恐怖を覚えました」

 東京国際女性映画祭のディレクターである大竹洋子さんから送ってもらっていた「映画に生きる女性たち−東京国際女性映画祭20回の記録」(パド・ウイメンズ・オフィス発行)に、映画を見た後でようやく目を通した。なぜ、女性映画祭を続けなければならないか。映画祭ジェネラルプロデューサーである高野悦子さんや大竹さんが、各回の主要出展作品を中心に20年余りを振り返っている。第9回目(96年)に上映されたカナダ人女性監督による「声なき叫び」という作品について数ページが割かれていた。「男性が描くそれまでのレイプの映画は、犯す男性の側にカメラを置き、犯される女性を撮る」というものだったが、この作品は「女性の側にカメラを置いて、男性の醜い顔を撮るという画期的な作品」と紹介されている。

 第3回目(89年)に上映された「コーリング・ザ・ショッツ」というこれもカナダ人女性監督2人の作品についても多くのことが語られている。編集者は、キャサリーン・ヘプバーンとジャンヌ・モローくらいしか知らないが、欧米の著名な女性監督、女優、女性プロデューサーら37人のインタビュー映像で構成されている作品で、これは20年前、すでに日本の映画界の状況を予言している作品でもある、という。

 「遅れていた日本がようやく欧米並みになり、女性映画人の困難が世界的になった」(高野悦子氏)。どういうことかといえば「お金をたくさんかけて製作し、たくさん回収する。こういうコマーシャリズムが強くなっていくと一番被害をこうむるのは女性」。「映画を一生懸命作っても結局公開できない」からだ。

 もっとも「この映画界の現状は、男性監督も直面している問題」というから、映画好きはもっといろいろな作品を見るために、映画館に足を運ばなければならない、ということだろうか。テレビ画面の小さな映像と中途半端な音声で満足せず。

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