レビュー

編集だよりー 2007年12月19日編集だより

2007.12.19

小岩井忠道

 年賀状もほとんど書いていないのにことしもまた、仮名手本忠臣蔵を聴くことになった。

 今年最後の女流義太夫演奏会は、殿中刃傷の段、判官切腹の段、祇園一力茶屋の段、とすべて忠臣蔵である。鑑賞後いつものように靖国神社近くのすし店で一杯となったが、今回は、高校の先輩、後輩だけでなく、社団法人義太夫協会の会長や、長年の義太夫ファンの方が加わり、なかなか刺激的な会話が交わされた。

 「今最大の悩みあるいは課題といったものは?」。協会会長にぶしつけな質問をして、会長を苦笑させ、先輩たちからは冷ややかな視線を浴びせられた。金がないということに決まっているではないか、ということらしい。女流義太夫の演奏会には、「どうする連」と呼ばれる熱狂的な男性ファンが押しかけたような時代もあったそうだが、いまはじっと聴いている客ばかりである。隣の女性も、編集者同様、終始、台本を手にしていた。

 「若い人に昔のような熱狂的な舞台を再現してもらったこともあったのだが、どうも評判が悪く」。レコード会社出身という義太夫協会長が笑いながら悩みの一端を明かす。「評判が…」というのは、この世界および周辺に長い間住んでいる人々から、という意味である。時代の変化に合わせるべきか、伝統を守ることを優先すべきか、議論があるということだろう。

 そのうち、義太夫を習ったこともあるという古くからのファンの方の舌鋒がだんだん激しくなり、わが同窓生組にも矛先が向いてきた。「義太夫を聴くならちゃんと勉強してからにしろ」というのである。編集者が、もとマスコミにいた人間と知ると、「記者も何も分かっちゃいない」と容赦しない。

 「しかし、例えばイチローのすばらしさ、技量の神髄を理解する人などほとんどいないでしょう。その一端でも伝えられないか、ということでやっているわけだから(古典芸能に対しても同じようなことが言えるのでは)」。余計なことを言って、火に油を注いでしまった。

 しっかり勉強してからでないと鑑賞する資格がない、と言いたくなる気持ちは分かる。しかし、それを強調しすぎると、ファンが減ってしまう心配はないだろうか。不熱心な義太夫協会の賛助会員ではあるものの、少々気がかりだ。

 マスコミに対する批判は、昔からあるし、その世界にいた人間から見ても「ごもっとも」と頭をたれる指摘は多々ある。ただことし、いろいろな場で、マスコミの報道に対する批判を聞きながら、昔とはちょっと違ったことを考える場面もあった。編集者が情報を求め、歩き回っていたころと、現在とでは大きく変わったことがある。今、普通の人は、新聞や放送で得られるものよりはるかに大量の情報をウェブサイトから得られるということだ。

 昔、原子力発電に関してクラスで発表をする、という息子と交わした会話を思い出す。「それじゃ、原発反対者の言っていることと全く同じだ」。それに対する息子の答えに「ウーン」とうなってしまった。原子力発電が悪いと書いている本しかない、というのだ。確かに原発は必要という本もないことはないだろうが、出版しても売れないから、高校生が目につくような場所にはほとんどなかったということだろう。

 しかし、今は違う。ウェブサイトで当事者が直接、言いたいことを発信すれば、それが大量の人の検索にひっかかる時代である。

 限られた行数、取材にかける時間的制約の中で、しかも限られた字数で書かれた記事に不満を言うのと同時に、自分のサイトで言いたいことをどんどん発信したらよいではないか。

 マスコミ報道に不満を述べる研究者たちの言葉を聞いて思ったというのはそういうことだ。

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