強風の中、終日JR総武線新小岩駅近くでテニスをした後、駅前の居酒屋で忘年会となった。旧職場の現役記者たちもいたので、ある質問をしたところ、同性愛について新聞、通信社はどこまで踏み込んで書けるかという話になった。ことしの新聞紙面を振り返ると、性同一性障害を持つ人々を正面から取り上げるなど、少数派の性についても相当に踏み込んだ記事が目についたような気がする。生物多様性の保全をはじめ、画一性や均質性をむやみにありがたがることへの反省機運が出てきたということだろうか。大多数とは違うことを持って人間の性だけをひそひそ語らなければならないのはおかしい、ということかもしれない。
「新聞もそろそろ踏み込まないといけないのではないか。事件報道などでも、これ以上詳しい話は週刊誌を読んでくれ、ということではすまないと思う」といった考えの後輩たちが多かった。
性の問題にかかわらず、多様性の大切さ、あるいはそれが避けられない事実だと気づくには、一定の科学的知識と考え方が必要に思える。さまざまな遺伝疾患は、これまで一定の確率で必ず発生してきたし、おそらくしばらくは変わらない。逆に遺伝子の多様性があるから、ヒトをはじめ絶滅せずに生きながらえている生物がいまこうして存在していられる。こうしたことを理解するには、理科的、数学的なものの見方に全く関心がないと難しいのではないだろうか。
自分自身と家族をながめても時々考えることがある。明らかに近眼の遺伝子を受け継いでいるとしか思えない。人類の長い進化の過程で、わずかな食料を求め、ステップや雪原などをさまよっていた時期は相当長期にわたると思う。この間、致命的な弱点だったと思われる近視の遺伝子を抱えた系統がどうしてしぶとく生き残れたのか。むしろ不思議なくらいである。
最近、関心を集めている理科離れ、科学技術への無関心という傾向については、科学技術立国に黄信号というとらえ方が目につく。しかし、問題はそれだけではすまないのではないだろうか。障害者、同性愛者、性同一性障害者といった少数派の人々が、心穏やかに生きる社会の到来も、難しくするという気がしてならない。
テニス仲間との忘年会が適度な時間に終わったので、浅草に寄り道することにした。土日も開店、休むのは水曜日という珍しい店に行くと、常連客である墨絵・俳画家の萩原雪鼓さんがいた。ちょうどよい。この編集だよりで前に触れたことがある象潟町と吉原について教えてもらうことにした。この店付近は、1966(昭和41)年の住居表示変更までは、浅草象潟町、浅草象潟1丁目〜3丁目、あるいは浅草馬道何丁目と呼ばれていた。萩原さんは、姪ごさんの名前が「せいし」(どういう字を書くかは聞きそびれた)という。松尾芭蕉が「奥の細道」の中で秋田県の象潟を読んだ有名な句がある。「きさかたや あめにせいしが ねぶのはな」。不勉強な編集者は5月に現在、隣接町と合併して「にかほ市」となっている象潟を訪ねるまで、こんな句があることすら知らなかった。ここに出てくる「せいし(西施)」というのが、昔の中国の美女の名だそうだ。
「せいし」という名前の姪がいるくらいだから、萩原さんは、ずっと旧浅草象潟町の住人である。
「馬道というのは途中から曲がっていてね、いったん日本堤に出てしばらく行くと吉原の大門があった。そこに見返り柳というのが今でもある」
落語の世界でくらいしか知らない吉原が、急に身近に感じられた。気取ったところがまるでない萩原さんは、店に置いてある紙に筆でさらさらと美人の絵を描いて気前よく客にくれる。この日も、後ろ姿がなんともいえない雰囲気を漂わしている女性の絵を1枚書いてもらったうえに、直筆の小さな絵入り色紙をはめ込んだ来年の暦までいただいてしまった。
遠回りして帰った甲斐があった。