レビュー

編集だよりー 2007年12月7日編集だより

2007.12.07

小岩井忠道

 邦楽家、西松布咏さんの唄・三弦を、セルリンタワー能楽堂で聴いた。江戸文化に詳しい法政大学教授、田中優子さんの解説がついたぜいたくな舞台(「第4回虹の会−こころのかたち」)である。

 布咏さんの演奏を聴くのは7、8回目だし、この能楽堂での演奏も2度目である。しかし、能舞台の真横、最前列からその弦と美声に接したのは、初めだ。真横からだと姿勢の良さがよく分かるし(当たり前か)、声を出すときののどの動きもよく見える。

 ゲスト出演した舞踊家、花柳千寿文さんの踊りも、特に決め所と思われる個所が、分かるような気がした。「これを踊ると太ももの筋肉が張る」。数年前、NHKの番組「日本の伝統芸能」で、板東三津五郎氏が言って言葉が唯一の根拠だから、勝手読みの可能性は大いにあるが。

 花柳千寿文さんの踊りというのは、布咏さんの地唄・三弦と合わせた「黒髪」という演目だった。頼朝への恋を北条政子に譲った辰姫という人物の心を表現したものという。嫉妬の念にかられた場面か、沈めようとする場面か、あるいはまるで別の個所か分からない。ともかく、重心を片方の足の方にかけて上体をややひねって反らせる姿勢に感心した。日本舞踊もスポーツと同じで、背中を伸ばしたまま腰を沈める、つまり太ももの筋肉を使う姿勢が基本。おそらくこの形を決めるには、片方の足の太ももには相当な力がかかっているはず。着物の下に隠れた筋肉の張りをつい想像してしまった。

 「吉原というのは、田んぼの向こうにあり、夜はそこだけ一際、明るい場所だった」。田中優子教授の解説のあとに、布咏さんがうたった「田面雁露手枕」(たのものかりつゆのたまくら)は、富本(節)で、中に「端唄」が出てくるという構成が、面白いところらしい。

 場所は、吉原のそばにある「浅草田圃の富士見亭」。そこで男女がしみじみしている。「待ちわびて寝るともなしに…、夢か現か現か夢か…」。そんな端唄が「象潟町」のどこかの家から聞こえてくる。とまあ、そんなうたである。

 地唄にしろ、富本にしろいつまでたっても素人には聞き取るのは難しい。実は「象潟」のくだりも聞き逃してしまった。これは、実に申し訳ない話だ。象潟といえば、芭蕉の「奥の細道」紀行最北端の町として知られるが、編集者は、秋田県の出身でもないのに、この象潟の前町長で、現在、にかほ市長である横山忠長氏から「にかほふるさと宣伝大使」を委嘱されている身である(2005年に象潟町は仁賀保町、金浦町と合併して「にかほ市」となる)。

 さて、「田面雁露手枕」というのは、明治15年(1882年)に世話狂言の序幕の濡れ場に黙阿弥が書き下ろした浄瑠璃ということだ。なぜ秋田県の象潟町が、明治の吉原界隈をうたった富本節に出てくるのか?

 帰宅して、にかほ市から贈られた分厚い「象潟町史 通史編(下巻)」をめくってみて、ようやく経緯が分かった。

 本荘藩主・六郷氏の下屋敷が浅草の一角、馬道近く(浅草寺の北側付近)にあったそうだ。明治11年(1878年)郡区町村編制法が公布(大区制が廃止)され、15の区の一つとして浅草区が誕生した際、本荘藩領内の景勝地「象潟」の名が、そのまま町名になった、という。

 象潟町はその後、周辺の町を取り込んで象潟1丁目、2丁目、3丁目となった。付近一帯が「浅草○丁目」に表示変更されてしまい、象潟の住所表示はなくなってしまったが、「浅草象三町会」という町内会はいまでも存在している。この浅草象三町会の子どもたちが夏休み期間中に、象潟町に民泊して農作業や地引き網を体験するといった交流が平成4年(1992年)以来、続いているという。

 昔、象潟何丁目かだった浅草・馬道近くのバーに行ったとき、講釈をたれるネタができた。

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