基礎研究ただ乗り。東京大学先端科学技術センター20周年記念シンポジウムのパネルディスカッションを傍聴して懐かしい言葉を聞いた。
同センターは東京大学宇宙航空研究所が大学から分離した後、その跡地に1987年に新設された。シンポジウム会場でもらった冊子に載っている宮野健次郎所長のあいさつ文によると、発足早々、国立大学初の寄付研究部門を開設したのをはじめ、これも大学初のTLO(技術移転機関)である株式会社先端科学技術インキュベーションセンター(現・東京大学TLO)の設立や、特任教員制度の導入など制度改革の先頭を走ってきた自負を持つ。
このような改革を可能にしたセンターが誕生した背景に、当時、米国で激しくなっていた日本批判の一つ、基礎研究ただ乗り論があった、とパネリストのひとり、中島秀人・東京工業大学社会理工学研究科准教授が言っていた。中島氏はセンター発足当時、センターの助手だった。自動車、家電製品など日本製品の輸出攻勢で自国産業が押しまくられていたことに危機感を抱いた米政界、産業界から噴き出した日本たたきの一つである。
確かに、米国で研究生活を送る日本人の数は、日本で研究している米国人に比べれば圧倒的に多かった(多分いまでも)。米国の研究費をふんだんに使って得られた基礎研究成果を活用して企業の国際競争力を強めている日本はアンフェアだ、という主張は、いかにも分かりやすい。これまで膨大な数の日本人が研究生活を送った米国立衛生研究所(NIH)でも、当時、こうした米世論を背景に、日本人研究者を新たに恒久的なポストに就かせないという方針が出されたこともある。実際には、恒久的なポストに就いているのは、ごく一握りの日本人だけで、むしろ大半の日本人研究者は、米国の基礎科学のレベルを押し上げる縁の下の力持ちになっているのでは、と今にしては思うが…。
こんな時代があったなどということ自体、米国人のほとんどが忘れているのではないか、と想像するが、当時の日本の関係者たちは、だいぶ苦労させられたと思う。東京大学先端科学技術センターができて7年後の1994年11月、都内のホテルで日米の大学、産業界の代表を集めたワークショップが開かれたことがある。「新たな産学関係を求める」というテーマだった。先方も有名大学の学長が顔をそろえたが、日本側の顔ぶれも相当なものだった。日本学術会議前・現会長、東京大学、京都大学、東北大学、慶應義塾大学の現・前学長、塾長のほか、経団連名誉会長以下、日産自動車会長、東芝会長、東京ガス会長、安田火災海上会長など産業界の要人がずらりと並んでいた。
最初から最後まで傍聴して、面白い経験をした。鳥居泰彦・慶應義塾塾長(当時)などは「日本は、憲法で私立大学に公的な助成ができないようになっている」と発言し、意味が分からなかった編集者は不勉強を大いに恥じたものだ。
このワークショップの議論のまとめ役だったのが、当時、東京大学学長だった吉川弘之氏(現・産業技術総合研究所 理事長)である。会議終了後に立ち話で聞いた答えが面白かった。
「米側には理解できないだろうから言わなかったが、日本の大学は学部一つ変えるにも文部省の許可がないとできない。大学の多様化を求めるなら規制緩和が必要、とならざるを得ないのだが…」
日本の大学も、文部科学省も10数年前に比べると相当な変化を示してはいる、ということだろう。