堤春恵の書き下ろし劇「駅・ターミナル」を、「あうるすぽっと」で観た。
難聴なので、演劇は苦手だ。音楽なら聞こえない音があっても困らない。どんな音を聴き損ねているか自体が、分からないわけだから。さらにオペラになると最近は歌詞が電光表示されるので、日本語で歌われるミュージカルなどよりかえって筋がよく分かる。
というわけで苦手な演劇だが、主役である伊藤博文を演じた外山誠二氏が友人のいとこというので、出かけたというわけである。案に相違して、台詞もよく聞き取れた。席が良ければ、なんということもない、ということだろう。
作品の構成に感服した。舞台は、時は変わっても常に汽車の車両内である。津田梅子、川上音二郎、貞奴、金子堅太郎、伊東巳代治、福地源一郎という実在した人物が、繰り返し登場するが、時代は次々に変わる。最初は、ハルビンの駅ホームで暗殺される伊藤博文が、その満州視察に向かうために新橋駅から乗った特別車両の中。既に女子英学塾を設立し、塾長になっていた津田梅子が伊藤に呼ばれて乗車してくる。
次は時間が戻って、岩倉使節団の出発時(このとき、伊藤らはまだ完成していない品川駅から汽車に乗り込む)。伊藤、福地源一郎は岩倉使節団の団員として、また津田梅子、金子堅太郎は使節団とともに渡米した留学生である。よく知られているように、津田梅子は渡米時、わずか7歳だったから、この場面には姿を現さない。
次の場面は、帰国して伊藤家の家庭教師になった梅子が伊藤たちと横須賀方面への旅行のため、新橋から横浜へ向かう車両内。次は2度目の米国留学から戻ったばかりの梅子が横浜から新橋に向かう車両内、そしてまた最初の場面に戻る。
作者の堤春恵という人は、インターネットで検索してみたら、劇作家になる前は米国の大学で、歌舞伎の勉強をしていたという。現在、早稲田大学文学学術院で、明治維新直後の日本古典演劇がどのようにして「近代化」していったかを研究するグループの一員でもある。
ところで、なぜ、作者は汽車にこだわったのだろうか。
2回目の米国留学から帰国した梅子に、横浜から新橋に向かう車両の中で伊藤が、鉄道に対する思いを話す場面がある。この時、伊藤は2度目の総理となっていた。日本全国に鉄道網をはりめぐらせたときこそ、日本が堂々たる近代国家になるときだ、というかつての思いを語った後、つぎのようなやり取りをする。
- 伊藤 しかし、今のわしには、線路の行き着く先が見えぬ。
- 梅子 線路の行き着く先はいつも、駅—ターミナルではないのですか?
- 伊藤 線路の行き着く先は海峡—そして海峡を越えれば、国境—。
最後の伊藤の台詞と同趣旨のことばは、劇の中で男たちから何度か繰り返し出てくるのだ。
そして、新しい新橋駅ができ、貨物専用の汐留駅に変わることが決まった旧新橋駅のホーム。梅子の印象的な独白で、この劇は幕を閉じる。
「私は女に生まれてよかったと思っています。男より、よほど晴れやかにN0!と言えますもの。」
線路をどんどん延ばして行っても、良いことはないと思えば、あきらめればいいじゃないの。そういう風に編集者には聞こえたが、見当外れの感想だろうか。