毎年、この時期に行っているグループ旅行で、土、日の2日、松本、信濃大町、黒部を回ってきた。かつて赴任地が同じで、エネルギーにかかわっていた(大半はいまでも)のを共通にする仲間である。企業、研究開発機関、役所、報道機関、と属する組織、職種はさまざまだが…。19年も続いているのは、もう一つの共通点が働いているからかもしれない。理系出身者がほとんど、という。
信濃大町、黒部には7月に行ったばかりだが、そのときは室堂に出て、立山(雄山)に登るのが主目的だった。黒部ダムは素通りである。今回は、時間が十分あったので、ダム周辺をゆっくり見学することができた。ダムのすぐそばにある殉職者慰霊碑に刻まれている人々の名前に粛然とする。数えると一段で57人。全部で3段、隙間なく並んでいるから171人もの人が、出力33万5千キロワットの発電施設を造るために命を落としているということだ。大勢が一度に亡くなった場合は、ニュースにもなったのだろうが、1人、2人の死亡は、きちんと報道されただろうか。いま、これだけの人が犠牲になるようなプロジェクトは、日本で実行可能だろうか。
「危険と分かっていても家族を養うためには働かなければ、という人が多かったのでしょうね」。同行者の言葉に、昭和30年代当時、日本国民の多くが置かれた経済状況にしばし思いをめぐらした。
いまでも親類が住む茨城県那珂川の河口には、戦後のある時期まで両岸の那珂湊と大洗を結ぶ橋が架かっていなかった。橋のある上流まで回るか、小舟で渡るか、さもなければ泳ぐ以外、目と鼻の先の対岸には行けなかったわけだ。ある時、立派な橋ができたが、その橋のたもとに刻まれた文字を読んだときも、ギョッとしたことを思い出す。そこに記されていた犠牲者の数はもはや記憶にはない。171人といったような数字ではなかったはずだが、受けた衝撃は今回以上だったかもしれない。この程度の橋一つ造るのにこんなに人が死ななければならないのか、と。
東京を離れると、忘れていたことを思い出したり、日ごろまず考えもしないような思いにとらわれたりするから、不思議だ。