至るところ猛暑日だったというこの日、塩名田宿から芦田宿まで炎天下の中山道をテクテク歩いた。前回(5月27日)歩いた坂本宿から碓氷峠を越える道は「本当に和宮の行列が通ったのか」と思うような狭い山道が続いたが、このあたりは平坦な道が多い。それでも道幅は広いもののちょっとした坂が最後の方にあり、カーブになるとほとんどが高齢者の仲間ともども一斉に道路を横断したものだ。山の陰になる少しばかりの日陰がある側へ、と。
途中の望月宿に「佐久市立望月歴史民族資料館」というのがあり、皆で見学する。蓼科山から流れる川の情景など、自慢の自然を紹介するビデオを観たら、常田富士男がナレーションを受け持っていた。
常田富士男といえば、広島の原爆投下をテーマにした映画「黒い雨」(1989年公開、今村昌平監督)に、1シーンだけ出ていた。北村和夫と市原悦子の叔父夫妻と被爆直後の広島市街地から逃れる主人公の田中好子に、「水をくれ」と哀願する被爆者の役だった。それっきり登場しないので妙な気がしていたが、後で、この作品にはそっくりカットされた後半部があったと知り、納得したことを思い出す。
最後の段階で今村監督自身の判断によってカットされた後半部分は、原爆投下直後の時代から、一挙に昭和40年に飛ぶ。お遍路姿、実際には女乞食の格好をした田中好子が広島市街を歩いているところに、観光バスから食べかけの弁当箱が投げ捨てられる。箱から転げ出た卵が、ころころ転がってどぶに落ちてしまう。田中好子は弁当箱をありがたくいただき、バスに向かって祈り、卵も井戸水で洗って食べてしまう…。
この場面でお遍路の連れとして、常田富士男が再登場するはずだったというのだ。この映画には、敗戦直後のおばさんらしくない沢たまきも出ていたが、彼女もカットされた後半部分でもう一度、出番があるはずだった、という。原爆ドームの前で、原爆で焼けこげた瓦だと言ってニセの瓦を観光客に売りつける悪女役として。
撮影済みだったこれらの場面をそっくりカットしてしまった理由について、今村監督は次のように言っている。
「私の最もとくいとする部分でして(笑い)、非常にいいんですね。もうそれだけで胸が迫るというふうな、そういう画ができたんですけれども…。白黒からカラーへというところのつなぎが悪い、嘘っぽいということだけではないんですね。やはりそうなることで、これはシナリオの中身の問題ですが、ラストで救済されてしまうように見えるところがはなはだ辛かったわけです。…救われたのでうれしいみたいな、そういう映画であってはならないわけです」(今村昌平著「撮る−カンヌからヤミ市へ」、工作舎、2001年)
「黒い雨」は、日本アカデミー賞最優秀作品賞やカンヌ映画祭高等技術委員会グランプリなど数多くの賞を受けたが、日本の配給会社だった東映の社長は「客が入らない」としぶい顔をし、実際に多くの観客を集めることはできなかったようだ。