レビュー

編集だよりー 2007年7月25日編集だより

2007.07.25

小岩井忠道

 新潟県中越沖地震は、原子炉建屋内にあるクレーンの損傷が新たに見つかるなど、原子力発電所に対する今後の地震対策のありように大きな影響を及ぼすのは必至のように見える。「原子力発電はもはやこれまで」とするなら話は簡単だが、日本も他の国もそうはいかないだろう。被害の様相を徹底的に調べて、できる限り公表し、教訓を広く知らせるのが、まずは何より必要とされるのではないだろうか。

 地震、新潟県となれば、編集者は1964年の新潟地震を思い起こす。年配者なら、黒煙を吹き上げる精油所のタンク群、ドミノ崩しのように橋脚部分で橋桁が次々に“外れ落ちて”しまった昭和大橋の写真を記憶している人も多いのではないだろうか。新潟国体が終わったばかりだった。「もし国体の最中だったら」と、当時、言われたようだ。国体に備え、立派な競技場が整備されたためだと思う。前年の1963年には、陸上競技やバスケットボールなどいくつかの主要な競技のインタハイ(高校全国大会)が新潟県で開催された。高校総合体育大会として1県でまとめて開催、という今のスタイルになるはしりが、新潟県で行われたというわけだ。それまで、インタハイは競技ごとに全国各地でバラバラに行われていたのである。

 1964年に新潟地震が起きたときは大学1年生だから、新聞で知る程度だったが、1976年に石橋克彦・東京大学理学部助手(当時、現神戸大学都市安全センター教授)が、駿河湾地震(東海地震)説を発表した直後、現地を取材したことがある。国内では史上最大といわれていたコンビナート火災を起こした昭和石油新潟製油所(現・昭和シェル石油新潟石油製品輸入基地)に、当時の地震被害の教訓をどのように生かしているかを聞くためだった。

 原子力発電所もこうであってほしいと思うが、昭和石油新潟製油所の幹部が所内を案内し、丁寧に地震による被害の状況とその後の改善措置を説明してくれたのに、まず感心した。その中で今でも覚えていることがある。非常用発電装置が働かなかった、というトラブルに関することだ。発電装置そのものはしっかりとした基盤工事を施した上に設置させられており、そのこと自体にミスはなかった。地震の揺れに対しても発電装置の本体は健全だったということだ。

 ところが、本体に燃料を注入するパイプが、本体との接合部でぽっきり折れたか、外れてしまったかで、結局、発電機は作動しなかったのである。取材当時も、確か地震当時と同じところに非常用発電装置が設定されていたと思うが、装置本体につながるパイプは、接合部分の一定の長さだけ蛇腹(フレキシブル)構造になっていた。発電装置本体をいかにしっかり固定していたとしても、パイプを支えている側が、がたがた揺さぶられてしまっては、どうしようもない。双方の揺れ方が違っても接合部分でそれを吸収してしまう対策を施しておかないと駄目だ、ということが、地震に遭って初めて分かったというわけだ。

 こんな地震対策は、いまではどこでも常識になっているのだろう。当時は、おそらく昭和石油新潟製油所以外の施設でも想定していなかったのではないだろうか。

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