「われらの六〇年代文化-花ざかりの森を吹き抜けた旋風」(ネット武蔵野、2006年7月発行)という本を引っ張り出して、読み返してみた。
日本映画、外国映画、現代演劇、古典演劇、クラシック音楽、フォーク、ロック&ポップスから漫画、落語など、1960年代の日本文化について15人の筆者が、自在に筆をふるっている。それぞれ自身の体験を織り込み、回想する形で。
科学、技術に関する分野をもっぱら論じているようにみえた村上陽一郎氏が「文学」を担当しているのも面白い。「不適任の由をもってお断りすべきものであった」などといった前置きが入っているが、相当“気合い”が入っている。太宰治が自死を選ぶ直前まで村上氏の自宅から歩いて数分のアパートに住んでおり、小さな医院を開いていた村上氏の父上が、何回か往診を依頼されたこともある「近しい存在」であった、といった事実も明らかにされている。
さて、この本を読み返してみた理由は、この本を贈ってくれた高校の同級生、石関善治郎氏(元マガジンハウス編集長、著書に「吉本隆明の東京」=作品社発行、など)が、15人の著者の1人として「現代演劇」の項目を担当しているのを思い出したからだ。
1963年暮れのニュースになった「喜びの琴」上演拒否事件から書き起こしている。「文学座の『座付き作家』三島由紀夫が劇団のために書いた脚本『喜びの琴』が当の文学座から上演を拒否された」という事件である。
この劇の内容は、石関氏の著書からそのまま引用すると次のようだ。
「公安の若い警官が、尊敬する上官の命じるままに行動した。が、実は、上官は左翼党のスパイで、若い警官は、列車爆破の片棒まで担がされていた。人や信条が信じられなくなった警官は、幻影の美しい琴の音を聞く」
「翌年、雑誌『文芸』に掲載された脚本を読みながら、上演を拒否したという文学座に違和感を感じ、滑稽だよな、と生意気にも笑っていた」と石関氏は書いている。実は、石関氏と同様、大学1年の時に編集者も同じ「文芸」でこの脚本を読んでいる。当時、相当な話題になっていたということだろう。石関氏のような文学青年ではなかったから、感想は単純だ。「こんな現実的にありそうもない話を読まされてもなあ」という程度の。
29日の朝刊各紙に「緒方元公安庁長官を逮捕」の見出しが躍っている。この問題が毎日新聞の報道で発覚したときに、思い出したことの一つが「喜びの琴」だった。小説や映画を見て「現実にありそうもない。少なくともこの日本では」とかつては切り捨てていたことが、最近は実際に起きてしまう。そんな思いは何度か経験してはいるが、緒方元長官と朝鮮総連をめぐる話は、これまでの例とはちょっと“スケール”が違うように見えた。報道を追うにつれて、どうも「喜びの琴」とはだいぶ性格が異なる話に思えてきたが…。