帰宅後、「同窓会史の文章チェック作業を片付けたら今日も早寝早起きで」と思っていたところ、固定電話の呼び出し音。「きょう敬二郎さんの日なのにどうしたの」。赤坂のライブハウス「STAGE-1」の経営者夫人からだった。
昭和30年代に一大ブームを巻き起こしたロカビリー3人男の1人、山下敬二郎氏は、年に数回、自分のバンドとともにこのライブハウスに出る。今夜も席を用意しているのにどうしたの、というわけだ。実はうっかりしていてこの日氏のショーがあるのを知らなかったのである。年末にパソコンが突然フリーズしてしまい、初期化からやり直す際、一番古いメールアドレスのあるプロバイダーと再接続するのをやめてしまった(正確に言うとできなかった)から、このアドレスあての連絡を受け取れなかったのも一因だった。
というわけで、あわてて出直し1ステージ目の途中から聴く。
「いくらダイアナ歌ってもおれには金は1銭も入らない。みんなポール・アンカに行ってしまうだけで」。歌の合間に、相変わらず客を笑わせる。日劇を狂乱状態にしたウエスタンカーニバルは、いなかで中学生だった編集者にとって、新聞や雑誌の写真で想像するだけだった。実際、若い女性ファンの叫声や、舞台への殺到やらで歌など聞こえなかったらしい。歌う方も数少ない曲目をとっかえひっかえ繰り返しているだけ、などと書いてある記事を最近、目にしたことがある。ただ、当時から歌手としての実力は、山下敬二郎氏が抜けていたようだ。残る2人、平尾昌晃、ミッキー・カーチスの生の歌声は聴いたことがないが、多分、山下氏ほどの声の伸び、声量もなかっただろうし、高音も出なかっただろう。
「昭和33年に演歌歌手の○○○○(編集者が耳にしたことがない名前)、大津美子と3人でハワイに行った。ヨーロッパ戦線で活躍したハワイの日系人部隊、第442連隊の元隊員たちの招待でね。プロペラ機だからウェーク島で給油しないと、ハワイまで行けなかった」。初めて聞く昔話が出てきた。そういえば昔、ハワイだったか、グアムだったかの屋外レストランで、現地の歌手が大津美子の「ここに幸あり」を熱唱していたのに驚いたことを思い出す。当時、すでに「懐かしのメロディ」になっていたこの歌を、どうしてここで聴けるのか、と。
山下氏の基礎は、本人が認めるようにカントリー・ウエスタンにある。氏の得意な「ラストダンスは私に」を聴いて、この歌がのんびりしたシャンソンなどではなく、もともとは高音と速いテンポが心地よい米国生まれの曲だと初めて知ったものだ。「何のかんの言ってもアメリカのおかげで生きてきたようなもの」。山下氏の述懐に、そんな気持ちを抱いている日本人はカントリーやポップスの歌手に限らず、他の分野でも少なくないかも、という気がしてきた。
「米国での研究生活を終えて帰国する際、○○の試薬瓶1本を抱えて来たものだ。当時、日本で買うことを考えると、ものすごく高いのが分かっていたから」
20年近く前、ストックホルムで開かれたエイズ国際会議で顔を合わせた高名な研究者から聞いた言葉を思い出す。