「ブラインドサイト〜小さな登山者たち」というドキュメンタリー映画の試写を日本記者クラブで観る。「感動のドキュメンタリー」とパンフレットにはあるが、涙がジワー、という感動とは、ちょっと違う。
英国から単身チベットに渡り、前世の悪行の報いとチベットでは今なおさげすまれている盲人のために学校をつくった盲目の女性教師。「生徒たちのために登山のワークショップを開いてほしい」。面識もないこの女性からの要請に応じるこれまた盲目の米国人登山家。盲人として初めてエベレスト登頂を成し遂げた著名なその登山家と、サポーターたちの支援により、エベレストのすぐ隣の山への登頂に挑むことになった6人の盲学校生徒たち…。
登場人物と舞台がこれだけそろっていながら、涙、涙…という作品にはなっていない。
「おれたちはトップを目指したがる」。頂上を目前にしたキャンプで、米国人と思われるサポーターの1人が言う。「頂上まで登らなくても十分に目的は果たせた」と、下山を主張する女性教師と激しくやりあった末に、西洋人と東洋人の考え方、価値観の違いを認めた言葉だ。盲目の登場人物たちの多くは、ハンデをものともしないかのように、自己主張もする。
登山シーンの間に、生徒たちの身の上を追う場面が挿入される。盲人であるために幼少時に親に捨てられ、学校に来るまで長年、路上で悲惨な物乞い生活を強いられてきた生徒(最初にチベットの名前を名乗っていたのはウソで、実際は中国人)が、親を訪ね当てて再会するシーンがあった。父親は一目で息子と分かり抱きしめる。「○○で見失い、警察にも頼んで探してもらったが見つけられなかった」。父親の言葉がウソと知っている生徒を、戻った宿で必死に慰めるサポーター…。盲目に生まれた人間とともに、その家族の置かれた現実の重さにたじろぐような場面が、やはり多い。
映画という表現手段が持つ可能性に感心したことは、これまで何度もある。しかし、ドキュメンタリー、あるいはドキュメンタリーと錯覚させるような作品ほど、心に迫るものはないのでは。見終わって、そんな思いにとらわれた。